Home/ 歴史認識 歴史認識 辺野古反対の背景にある中国反日運動の黒い影 2015.11.25 文/HS政経塾2期卒塾生 服部まさみ ◆地方議会で相次いで可決される辺野古反対意見書 フィリピンで行われたオバマ大統領との会談で、米軍普天間飛行場移設問題について安倍首相は「辺野古が唯一の解決策。確固たる決意で進める」と日米合意を堅持し、対抗措置を取って工事を再開していることを説明。 オバマ大統領が謝意を示すなど順調に見える日米関係ですが、その背後に何やら怪しい影が潜んでいます。 産経新聞によると、全国の地方議会が移設反対や建設工事中止を求める意見書を相次いで可決しているというのです。 そのうち25件が衆院に提出され、その他にも首相宛ての意見書が39件、防衛相、外相にも多数の意見書が提出されています。 沖縄県の市町村議をはじめ、菅直人氏の地元でもある東京都武蔵野市や国立、小平市議会、長野県の4町村議会、愛知県岩倉市議会など左派の政党や無所属会派が多い自治体で「地方自治体の尊重を求める意見書」が可決されています。 意見書は「基地強化は、沖縄県民を再び戦争の惨禍に巻き込む危険性を高める。沖縄の民意を踏みにじって基地建設を強行することは地方自治の侵害と言わざるを得ない」とし、地方自治を尊重するよう求めています。 また、大阪府吹田市と兵庫県尼崎市議会では名護市の建設反対意見の尊重を決議しています。 このような意見書にあまり拘束力はありませんが、政府や国会に圧力をかけて政策変更の流れをつくろうとする手段として使われています。 ◆慰安婦問題の既成事実化と同じ構造 さらに、この動きが慰安婦の既成事実化につながったことと極めて似ているのです。 2007年米国議会において、マイク・ホンダが中心になって、従軍慰安婦問題で日本を非難する決議案が採択されましたが、このマイク・ホンダを下積み時代から支援していたのは「世界抗日連合会」という反日団体です。 「世界抗日連合会」は主要30カ国以上の中国系、韓国系、日系団体が結集し、世界中に網の目のようなネットワークを持つ巨大な組織です。『ザ・レイプ・オブ・南京』の著者アイリス・チャンもメンバーでした。 もちろん中国共産党とは深い関係にあります。 この反日団体が2007年に米国議会で日本を非難する決議案を採択した次に行ったことは、日本の地方議会で、慰安婦問題で政府に国家賠償や公的謝罪を求める意見書を数多く提出するということだったのです。 2008年から2013年にかけて全国の地方議会で意見書が提出され、そのうち民主党や共産党などの左派が多い42市議会で可決されています。 反日団体が地方議会に意見書を提出させる目的は、「日本の地方議会も政府に対応を求めている」などと国際舞台で利用できる法的論拠をつくるためです。 米国における従軍慰安婦像設置でもこの論拠を利用し、既成事実化されてしまったのです。 従軍慰安婦問題の場合、河野談話の存在もありますが、もし、新しい談話が発表されても地方議会で認めておけば、「国民の声をきかない政府」というレッテル貼りができ、プロパガンダとして十分に使えるからです。 そのため、辺野古反対の意見書も地方議会だけの動きだとあなどってはいけません。 ◆背後で操る中国共産党 しかもこの「世界抗日連合会」は、世界の反日組織の一部でしかありません。 中国の呼び掛けで2003年、韓国、北朝鮮、アメリカ、日本、フィリピン、オランダの反日グループのリーダーが上海に集まり、国際反日ネットワーク「日本の過去の清算を求める国際連帯協議会」が結成されました。 巨大なこれら世界の反日組織のまとめ役になっているのが中国政府のシンクタンクとして4200名の研究者を擁し大きな影響力をもつ「中国社会科学院」なのです。 「世界抗日連合会」は国際反日ネットワーク「国際連帯協議会」のアメリカ支部という位置付けでしかありません。 そして、従軍慰安婦問題と同じように米国でも辺野古移設に反対する地方議会が出てきました。 カリフォルニア州バークレー市議会は今年の9月15日、米国議会で初めて辺野古移設計画の中止を米政府に求める「沖縄の人々を支援する決議」を可決しています。ちなみに「世界抗日連合会」の本部はカリフォルニア州にあります。 また、今月19日には、辺野古移設計画に反対する沖縄県の地元財界人や有識者の団体が訪米し、ワシントンの米議会で説明会を開催し「民意を反映していない」として計画を見直すように求めています。 中国共産党は戦前から、「用敵」という「敵の手を使って、敵を打て」という考え方で日本を攻略しようとしているといわれていますが簡単に言えば「工作」です。 日本の中枢に入り込み、メディアを使った世論誘導や経済的利益、外交、観光などを通じて国民がコントロールされているのです。 今後の研究課題ではありますが、東京裁判やGHQの占領政策だけではなく、日本では戦前から中国共産党の対日工作が始まっていたという意見もあります。 知らない間に何となく世論を動かされ、指導者層の意思決定能力を奪われ、何となく現状を変えられ、最後に非正規軍によって制圧されてしまう。すでにこのような「戦争」が仕掛けられているのです。 「平和憲法を護れ!」、「沖縄の海を守れ!」と声高に叫ぶ人たちは中国人にとっての「平和」とは、「和を持って平らげる」(仲の良いふりをして、支配する。相手を滅ぼす)という意味だということを知るべきでしょう。 ◆本当の敵を知り行動する 米国における従軍慰安婦問題は、一部の活動家と有権者が日本を非難することを強く望み、他の多数派が黙っていたことが、結果的にいかにも全体の「総意」として望んでいるように映ってしまった点があります。 日本を守り、本当に勝つためには政府は場当たり的な対策ではなく、的確な情報を集め、分析し、重要人物や要所、要所を攻略していく必要があります。 辺野古移設で従軍慰安婦問題と同じ失敗を繰り返さないように、私たちはマスコミの世論誘導や「空気」に支配されることなく、本当の敵を知り、行動していかなければなりません。 日本は、日韓関係にどう立ち向かう? 2015.11.03 文/HS政経塾4期生 窪田 真人 ◆日韓首脳 3年半ぶり会談 2日午前、韓国訪問中の安倍首相はソウルの青瓦台にて、パク・クネ大統領と初めて個別に会談しました。 二国間の首脳会談は約3年ぶりであり、旧日本軍による従軍慰安婦問題について年内を含め早期妥結を目指す方針、また経済、安全保障の面で協力を強化する方針で一致しました。 なお会談時間のほとんどは、慰安婦問題についての話し合いに使われましたが、見解は平行線のまま、具体的な解決策が提示されることなく、終了しました。 ◆現在の韓国の状況 これまで従軍慰安婦問題を前面に出し、反日外交を進めてきたパク・クネ大統領が、なぜこのタイミングで安倍首相との個別会談を受け入れたのでしょうか。 その背景には経済・外交の両面における韓国の苦しい事情があります。 現在の韓国は、同盟国である米国と安全保障面でより強い関係を構築したい一方で、日本に対して歴史認識をめぐり共闘し経済の結びつきも強い中国と関係を維持せざるを得ない状況に置かれています。 すなわち米国、中国の間で大きく揺れ動いている、それが現在の韓国の状況です。 先月27日、米国政府が南シナ海での中国による人工島から12カイリ以内の海域に、アメリカ海軍のイージス艦を派遣し、航行させた件について、日本は米国の行動を支持する旨を表明していますが、韓国は、中国との経済的な繋がりを重視する姿勢から、自身の立場を表明していません。 しかしその中国は経済が悪化しており、先月10月の韓国の輸出額は前年比15.8%減少しました。輸出依存度が高いことで知られる韓国にとっては大きな打撃です。 こうした状況を踏まえ、韓国は日本との関係改善による経済活性化、また中国への経済依存の軽減を目指す目的で、今回の日韓首脳会談は行われました。 ◆元慰安婦への財政支援拡大!? 日韓首脳会談を受け、日本政府は対応策の検討に入っています。 特に慰安婦問題については、2007年に解散したアジア女性基金のフォローアップ事業の拡充を通し、元慰安婦への財政支援拡大を進めようとしています。 皆様ご存知の通り、1965年日韓国交正常化にあたって結ばれた日韓請求権・経済協力協定にて、日本は韓国に5億ドル(当時の韓国国家予算のほぼ2年分)の経済協力等を行い、日韓の賠償問題については完全かつ最終的に解決されています。 日本政府もその見解を持ちながらも、今回の会談を踏まえ、「基本的人権を踏みにじられた女性への人道的支援の充実」と称して、元慰安婦への財政支援拡大を行おうとしているのです。 こうした姿勢は「日本が従軍慰安婦問題を認めた」と諸外国に発信することに繋がりかねない為、絶対に実行されるべきではありません。 日本は、「従軍慰安婦問題はデタラメである」という正しい歴史観を世界に発信し続けるべきです。 そもそも現在の韓国の一番の問題点は歴史認識ではなく、経済における中国依存度があまりに大きいために、外交上中国に強く出ることができない状況、すなわち経済面にこそ大きな問題があります。 そのような状況下において、元慰安婦への財政支援拡大など日本にとって何もプラスに働きません。 ◆日本が目指すべき日韓関係の在り方 ただし、中韓の関係が更に強化される事態は避けなければなりません。 目指すべきは、日韓の経済的な繋がりが強化されることで韓国の対中国依存度を軽減し、日米韓における東アジアにおける安全保障体制を強化することです。 では日本はこの状況を踏まえ、何ができるのか。 その1つとして、韓国のTPP参加の後押し、協力を積極的に行うことが挙げられます。 特に韓国がTPPに正式に参加する場合、既に参加した12か国から厳しい市場開放などを求められることになりますが、韓国にその点を大きな負担と思わせることなく参加に導けるかが、日本に求められる役割となるでしょう。 日本が積極的に韓国のTPP参加に働きかけ、多くの輸出先が韓国に開かれれば韓国の対中国依存度を減らすことができます。 そして韓国は経済と外交の間で揺れ動く、現在の状況を一歩改善することができるでしょう。 日本は、こうしたアジアのリーダーとしての役割を果たしていくべきであると考えます。 1985年、トルコ政府がイラン駐在の日本人を救った理由 2015.10.24 文/幸福実現党・政務調査会チーフ 小鮒将人 ◆イラク・フセイン大統領が突然、「48時間後に撃墜宣言」! 前回は1890年、紀伊半島沖で発生したトルコ船の海難事故、そしてその救助に当たった日本人の対応に、多くのトルコ国民が感動をしたエピソードをお伝えしました。 今回は、映画「海難1890」に関して、事故からおよそ100年後、1985年(昭和60年)に中東テヘランで実際に起きた出来事についてお伝えいたします。 1985年当時、中東ではイラン・イラク間の戦争が長期化していました。当時、石油ビジネス関連の商社マンを中心に約二百数十名人がイランの首都テヘランに居住していたと言われています。 さて、イラクのフセイン大統領は、戦争の膠着状態を打破する事を意図したのか、1985年(昭和60年)3月17日、突然、以下のような宣言を公表しました。「今から48時間を過ぎれば、イラン上空を通過する全ての航空機を無差別に攻撃する。」 日本人を含め、テヘラン駐在の外国人にとって、この「宣言」は寝耳に水でした。諸国の駐在員は、制限の期日までに帰国の途に就こうとします。 しかし、当時、日本・イラン間の航空便が就航していない日本人には、帰国の手段がありません。駐イラン大使は日本政府に対して緊急に、飛行機の手配を依頼しました。 ◆日本政府が日本人を救出できなかった理由 依頼を受けた日本政府(当時は中曽根首相・安倍外務大臣)は、まず自衛隊機の派遣を検討しましたが、自衛隊法の制約で海外に飛ぶことが不可能ということが分かりました。 [その後、自衛隊法は改正され、現在では同様の事態が発生した時には、自衛隊機による救助は可能] そこで、直ちに日本航空に臨時便を要望しました。 イラン行きを志願するパイロットも出て、順調に出発する準備が進められたのですが、なんと、当時の労働組合が「乗務員の安全が確保されない状態では出発できない」という理由で、出発を拒否したのです。 戦争の中、しかも48時間後には撃墜される可能性がある危険な空域を飛ぶことには、大きなリスクがあります。 組合としての判断は「安全第一」というものでしたが、これも戦後一貫して「平和憲法」を奉じてきたために、リスクを冒すという発想がなかったのかもしれません。同じ日本人として、実に残念な判断でした。 ◆頼みの綱、トルコの判断は? イランに駐在する日本人達が脱出する手段は、他の国の力を借りるしか手段が残されませんでした。 それも極めて望みの薄いもので、時間がどんどん経過していく中、日本人たちの絶望がいかに大きなものであったのかが推測されます。 まず、欧米諸国の航空機会社に依頼して、一人でも多くのチケットの確保を目指しますが、相手は欧州人優先の判断で、ごくわずかに入手できたにすぎませんでした。 そこで、当時の野村豊駐イラン大使は、最後の頼みとして、トルコのビルレル大使を訪れ、トルコ政府に緊急便の依頼をしました。当時イランには、600人あまりのトルコ人がおり、とても日本の支援ができる状態ではなかったので、もともと諦めていたのです。 一方、トルコ政府に対しても、「商社」のルートを通じて、当時のオザル首相にも同様の依頼を行いました。日本人にとっては、ほとんど可能性のない希望でした。 しかし、トルコ側は、日本人が直面した事態の深刻さを理解し、直ちに臨時便の手配を承諾したのです。 その時にトルコのビルセル大使が日本を助ける理由として語った事が、「これは、エルトゥールル号の恩返しなのです」というものでした。 トルコでは「エルトゥールル号の海難事故」については、教科書にも掲載されるなど、100年前に日本人が心を尽くしてトルコ人を救助した逸話を忘れていなかったのです。 そして、先人たちが日本から受けた恩を返す機会だと、快く救助の手を差し伸べてくれたのです。 このように、トルコ政府の決断によって、「緊急の」旅客機1機が出発しましたが、1機だけでは、すべての日本人を救助することができないことが分かりました。 そこで、トルコ側は、もう一機の「定期便」も、日本人のために使ってもらう事を提案しました。 当時、イランに駐在していたトルコ人は、自らが乗り込む予定だった飛行機を諦め、自動車に分乗して、母国トルコに向かったのです。 かれらもこの決定について、「100年前の恩を返そう!」と一致し、ほとんど異論は出なかったと言われています。 このトルコによる救助によって、制限時間以内に、帰国を希望する全ての日本人が無事に日本に帰ることができました。 国際政治の判断には、国益と国益とのぶつかり合いの中で、冷徹な判断が求められるものですが、今回のエピソードのように魂と魂がふれ合う温かみがあることも分かりました。 そうした意味で、日本人として、先人たちの偉業を再認識し、日本人としての誇りを取り戻す一方、日本人を誇りに思っている国もあることを忘れない事も大切だと感じました。 トルコを熱烈な親日国に変えた「海難事故」について 2015.10.23 文/幸福実現党・政務調査会チーフ 小鮒将人 ◆映画「UFO学園の秘密」大絶賛公開中! 現在、全国で、映画「UFO学園の秘密」(幸福の科学出版作品)が公開されています。 宇宙との交流を取り上げている映画は今までにも数多く公開されていましたが、この映画では、宇宙人がさまざまなキャラクターを持っているという事実など、今までにない切り口で宇宙時代の到来を描いたお勧めの映画です。 米国でも同時公開され、「アカデミー賞」を取れるのではないか!と、ネットでも大きな反響をよんでいます。 まだ、ご覧になっていない方は、下記のアドレスからお近くの上映館を検索することができますので、ぜひご覧ください。 http://www.eigakan.org/theaterpage/schedule.php?t=384 ◆12月には「海難1890」(原題「エルトゥールル」)が公開! さて、引き続き12月には映画「海難1890」が公開されます。これは、今から125年前に実際に起きた海難事故と、その後の感動的なエピソードを描いたものです。 125年前の明治23(1890)年、トルコから一隻の軍艦が日本を表敬訪問しました。「エルトゥールル号」と言います。 この年の6月23日に東京で、明治天皇に対しトルコ皇帝からの親書を渡し、その後約3か月にわたり、日本各地で大歓迎を受け、トルコへ帰国することになりました。 ところが、その途上の9月16日、折からの台風が直撃し、エルトゥールル号は、紀伊半島沖の岩礁に激突、その結果、機関が爆発し、沈没するという悲劇に見舞われました。 この爆発にともない、司令官オスマン・パシャをはじめとする乗務員600人が海に投げ出され、多くの乗務員はこの海難で命を落とします。 悲劇的な事故の中、数少ない生存者たちは力を振り絞って、紀伊半島の最南端、大島村(現在は串本町に合併)潮岬付近の沿岸にたどり着きました。 ◆底抜けに善良な日本人にトルコ人が感動 この遭難したトルコ人の第一発見者は、樫野崎灯台の灯台守と言われ、直ちに、地元大島村の区長をはじめとする村民に伝えられます。 トルコ軍艦による明治天皇への表敬は、すでに日本人に知られていたので、事態の重さを感じた大島村民たちは、不眠不休の救助作業を行います。 特に、漂着した潮岬付近は断崖絶壁で、健康な人間でも上るのが困難な場所で台風の中、村民たちは、遭難者を一人ひとり縄でくくりつけ、崖の上に引っ張ったと言われています。 そうして助けたトルコの乗務員は69名。元々、食糧の蓄えが多いわけではありませんでしたが、村民は、浴衣などの衣類、卵、非常用の鶏も供出され、最大限の救護を行いました。 同時にこの大惨事は、明治天皇にも知らされ、天皇は政府に対し、可能な限りの支援を行うように指示がなされました。 各新聞もこの悲劇を報じたことで、日本全国から自発的に義捐金・弔慰金も寄せられました。 生存者の体力が回復した頃を見計らって、日本政府は海軍の最新鋭艦「比叡」と「金剛」の2隻に生存者を乗せ、トルコのイスタンブールまで送り届けることを計画、実行しました。 2隻になったのは、万一、片方の軍艦が沈没しても対応可能なように、との明治天皇の配慮と言われています。 なお、この中には、後の日露戦争、日本海海戦でロシアバルチック艦隊を相手に大勝利を挙げた秋山真之参謀も少尉候補生として乗り込んでいました。 この航海は、トルコの首都イスタンブールを目指しました。 順調に進み、とうとう、地中海からダーダネルス海峡、ボスボラス海峡を経て、トルコ領海に入るところまで来たのですが、大きな問題が発生しました。 ロンドン条約によって、上記の2つの海峡は「外国船」の通過が認められなかったのです。 実は、ここでいう「外国船」とはロシア船を想定しており、ロシアの南下政策への歯止めとなっていたのですが、日本にもこの条約が適用され、残念ながら、日本はトルコ領海に入る一歩手前のエーゲ海で、生存者を引き渡さなければならなくなったのです。 ところが、迎える側のトルコ国民にも「比叡」「金剛」の航海について広く知られており「日本人を首都まで迎えたい!」という要望が強くなりました。 そして、とうとうトルコ皇帝アブディルハミド2世は特例を認め、2隻がイスタンブールまで来る事を認めました。 1891年1月にトルコに到着し、生存者を送り届けた日本海軍の軍人たちは連日、熱烈な歓迎を受け、約1ヵ月滞在ののち、日本に帰りました。 ◆トルコが親日であった理由 トルコは、日本が「明治維新」という世界史的な奇跡、近代化を成功させたことと、同じ「ロシア」という巨大な敵国に直面していることで、親近感を持っていた中、このような日本人と明治天皇の善意に触れ、さらに好意をもったようです。 このエルトゥールル号の遭難事故について、日本人で知っている方は少なく、中学校の歴史教科書では扶桑社が掲載しているにすぎません。 しかし、トルコでは長年にわたって多くの国民に知られており、日本の外務省の調査によると、約3割のトルコ国民がこの事件を「知っている」と回答しました。 映画「海難1890年」では、日本とトルコ両国で育まれた友好関係について、1895年(昭和60年)イラン・イラク戦争の中で、突如発生した日本人の危機をトルコ政府が救う感動的な実話に基づいて物語がつづきます。 「正義の国・日本!」―満州事変から大東亜戦争まで【3】(全3回) 2015.10.20 文/幸福実現党・茨城県副代表 中村幸樹 ◆大東亜戦争の原因(1)――「人種差別による日本人排斥」 1919年、日本はパリ会議で、国際連盟規約への「人種差別撤廃条項」を提案し、賛成多数になるも、議長のアメリカ大統領ウィルソンは否決しました。 以後、アメリカの排日運動は勢いづき、1924年5月には、「絶対的排日移民法」が成立しました。 これで、親米的だった大部分の日本人が反米に変わり、日本政府のアメリカ協調外交も難しくなっていきました。 昭和天皇は、戦後「この大戦の遠因はアメリカ移民の問題であり、近因は石油が禁輸されたことである」との主旨を言われましたが、正鵠を得ていたと思います。 そして、正義は、「人種差別撤廃」「植民地解放」を目指した日本にあったからこそ、戦後のアジア・アフリカ諸国は、独立していったのです。 ◆大東亜戦争の原因(2)――「共産主義の工作」 1930年代のアメリカ政府には、共産主義のスパイが何百人も入り込んでおり、「ハル・ノート」を作成した財務次官補ハリー・ホワイトもソ連のスパイでした。 戦後の朝鮮戦争、ソ連との冷戦、ベトナム戦争、中共の台頭を見れば、共産主義を悪と見て、防共に努めた日本に、正義があったと言えます。 ◆大東亜戦争の原因(3)――「ホーリイ・スムート法に始まったブロック経済」 1929年、アメリカ下院議会に上程されたホーリイ・スムート法が、世界恐慌の決定打となりました。約1000品目の巨大な関税障壁により、一年後には、世界の貿易量が半分になりました。 1933年のオタワ会議で、イギリスもブロック経済に入りました。 アウタルキー(自国で出る原料・資源で経済的なことが完結できる政府)ができるアメリカ、イギリス、フランス、オランダ、ソ連は良くても、アウタルキーができない日本、ドイツ、イタリアには、致命的な問題でした。 戦後、ブレトン・ウッズ体制をとって自由貿易を推進したのは、ブロック経済、保護主義が、先の大戦の遠因だとわかったからです。 ◆大東亜戦争の原因(4)――「石油禁輸とABCD包囲網」 アメリカ、イギリス、シナ、オランダを抱き込んだABCD包囲網で、日本は資産を凍結され、石油や鉄など様々な原材料を輸入できなくなりましたが、致命的なのは石油禁輸でした。 大東亜戦争が自衛戦争であったことは、アメリカ上院軍事外交合同委員会におけるマッカーサーの証言でもわかります。 「日本は絹産業以外には、固有の産物はほとんど何もないのです。彼らは綿がない、羊毛がない、石油の産出がない、錫がない、ゴムがない、その他実に多くの原料が欠如…これらの原料の供給を断ち切られたら、一千万から一千二百万の失業者が発生するであろうことを彼らは恐れていました。従って、彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのです。」(マッカーサー証言 抜粋) 大東亜戦争の原因として、日本からアメリカに仕掛けたことは何もありませんでしたが、ルーズベルトは、ドイツと戦うためにも、何がどうあろうと、日本を戦争に追い込むつもりでした。 1941年2月には、日本と戦って屈服させた後の処理を研究する「特別研究部(SR)」を発足させ、7月18日には、150機のB17爆撃機と、250機の戦闘機で東京、横浜、大阪、京都、神戸への爆撃作戦「JB-355」も承認していました。 (戦線が急迫したイギリスに爆撃機を回して実施はされず。) ◆大東亜戦争は、「自衛権の行使」「植民地解放」「人種差別撤廃」の聖戦 大東亜戦争は、人種差別による日本人排斥、共産主義の工作、ブロック経済とABCD包囲網の経済封鎖で追い込まれ、特に石油禁輸が決定打となった「自衛戦争」でした。 日本は、戦わざるを得なくなった以上、正義を貫くべく、全占領地域で現地政府を樹立し、自主独立への教育訓練、人種差別撤廃を推進しました。 大東亜戦争は、「欧米列強から、アジアの植民地を解放し、白人優位の人種差別政策を打ち砕くとともに、わが国の正当な自衛権の行使としてなされたもの」「アジアの同胞を解放するための聖戦として、日本の神々の熱き思いの一部を実現せしもの」(『大川談話』)だったのです。 大川談話―私案― http://special.hr-party.jp/policy2013/okawa-danwa/ 「大東亜戦争は神の意を受けた聖戦であり、激戦の地で戦死した先人たちは英雄である。」(真の平和に向けて あとがき)と断言し、筆を終えます。 『真の平和に向けて』大川隆法著/幸福の科学出版 https://www.irhpress.co.jp/products/detail.php?product_id=1464 「正義の国・日本!」―満州事変から大東亜戦争まで【2】(全3回) 2015.10.17 文/幸福実現党・茨城県副代表 中村幸樹 ◆日中戦争の経緯(4)――[南京攻略] 日本は、首都をおさえれば蒋介石も講和に応じるだろうと考え、南京攻略を決断しました。 日本軍は、世界一の規律を守る人道的な軍隊でしたが、南京攻略戦でも、松井石根大将は、後世の模範となる行動をするべく全軍に訓令を出し、軍規を徹底して、終始、立派な指揮をしました。 日本は、住民に被害が出ないように、国民政府軍にオープン・シティ勧告を出しましたが、蒋介石は、勧告を受け入れず、市民を置き去りにして脱出してしまいました。 ドイツ軍に対するパリの如く、オープン・シティにすれば被害が出ないのに、しなかった責任は蒋介石にあります。 日本軍は、慎重に、攻略前にも投降勧告を出し、拒否を確認してから、1937年12月10日、攻撃を開始しました。蒋介石に任された唐生智(トウセイチ)将軍も途中脱出してしまい、日本軍は13日には城内に入り、17日には正式に入城式が行われました。 市民の多くは日本軍が来る前に南京城内から逃げ、逃げ切れなかった市民が第三国がつくった「安全区」に避難しました。日本軍占領後は「南京は安全だ」と分かり市民が戻り始めると、約1か月後には、人口は25万~30万に増えています。 「南京大虐殺」という言いがかりは、中国共産党の覇権に悪用され、日本の自虐史観の原因にもなっていますが、東京裁判で、突如として捏造されたものです。東京大空襲や原爆投下の正当化のためにも、日本の戦争犯罪をでっち上げる必要があったからです。 日本人による虐殺など存在しなかったがゆえに、戦後になるまで噂さえ立たず、蒋介石も米英仏も、当時抗議したことがなく、多数駐在していた欧米マスコミからも指摘されず、東京裁判では実証できず、戦後出てきた「証拠写真」なるものは、すべてインチキと判明しているのです。 ハーグ陸戦規定により、便衣隊(ゲリラ)は、掃討し、処刑するのが国際常識ですが、これは虐殺とは呼びません。 ◆日中戦争の経緯(5)――「欧米諸国の蒋介石支援」 日本は、上海、南京、広東、北京、天津、保定、武漢三鎮(漢口、漢陽、武昌)などの主要都市を皆占領しましたが、蒋介石は重慶の山の中に逃げていました。 米英ロシアが、資金、物資、兵器等を、蒋介石を支援し続けなければ、南京政府を作った汪兆銘と蒋介石を話し合わせ、日本軍が願い続けていた支那からの撤退が可能となったはずです。 ルーズベルトは、米退役将校シェンノート(中華民国空軍航空参謀長)の航空隊「フライング・タイガース」に、アメリカ人飛行士100人と飛行機500機の派兵までしました。日米開戦前の軍事的関与であり、重大な国際法違反です。 ◆日中戦争(支那事変)は、日本の侵略戦争ではない 日中戦争は、すべて受け身で、支那側からの攻撃に対処していったものでした。 開戦責任は支那側にあり、日本陸軍は、引きずり込まれながら、一貫して終結を願い続けましたが、共産主義のスパイ活動、米英の蒋介石支援により、抜け出せなかったというのが真相です。 もし、支那事変が侵略なら、例えば、韓国軍が、突如、アメリカ民間人を大量虐殺し、在韓米軍を攻撃してきたため、米軍が救出に向かったら、アメリカは韓国を侵略したということになります。 そして、米軍が韓国に平和と秩序と繁栄を取り戻し、新たな韓国人リーダーを擁立して撤退しようとしても、もとの韓国軍が北朝鮮の山奥に立てこもり、中国やロシアが兵器や物資、資金を供給し続けるために、撤退できずにいたら、アメリカは韓国を侵略し続けている、ということになります。 つまり、支那事変が日本の侵略戦争なら、朝鮮戦争もベトナム戦争も、アメリカの侵略戦争ということになりますし、世界のほとんどの紛争を侵略戦争と呼ぶことになります。 ですから、支那事変を日本の侵略戦争とするのは不当であると結論づけられます。 「正義の国・日本!」―満州事変から大東亜戦争まで【1】(全3回) 2015.10.16 文/幸福実現党・茨城県副代表 中村幸樹 ◆満州事変と満州国建国の経緯 コミンテルン(共産主義インターナショナル)にそそのかされた反日侮日運動が過激化し、張学良軍、馬賊、匪賊による、誘拐、略奪、恐喝が横行する満州で、1931年9月18日、一万数千人の関東軍は、30万とも45万ともいわれた張学良軍を追放しました。(満州事変) 政府や陸軍中央も知らないところで起きたのは問題であり、政治的リーダーシップの欠如(幣原外交)や明治憲法の欠陥(統帥権干犯問題)等、改善すべき点はあったにせよ、日本人居留民に危害が及ぶ危機的状況を、自衛のためにも解決せざるを得なかったというのが、満州事変の真相でした。 翌1932年3月、関東軍の主導で、清朝最後の皇帝溥儀(フギ)をトップに迎えて、満州国を建国しました。大臣たちは全員、満州人か清朝の忠臣としました。 1911年の辛亥革命で、満州族王朝清から、漢民族(シナ人)が独立し、日本公使館に逃げ込んだ溥儀の、切なる希望が満州国でした。満州国は、民族自決という観点からも理にかなっていたのです。 漢民族と満州民族は別の民族であり、万里の長城以北は、シナ固有の領土とは言えません。 シナを支配したことがある民族の故郷はシナの領土だと言うなら、インドを支配したことがあるイギリスは、インドの領土だという論理になるからです。 満州国は、「五属共和」(満州民族、漢民族、蒙古民族、朝鮮民族、日本民族の共存共栄)を建国の精神として、安定した治安、安心できる生産活動、商業活動を提供し、奇跡と言えるほど発展しました。 塗炭の苦しみに喘いでいた不法の土地、満州は、自動車や飛行機まで作ることができる一大近代国家、桃源郷へと変貌を遂げたのです。 ◆満州事変と満州国建国は、日本の侵略ではない もし、満州事変が侵略なら、例えば、チベットやウイグルをアメリカ軍が独立に導き、トップも大臣もすべてチベット人やウイグル人にし、実務は手伝って近代化を促し、人々があこがれる、安全で繁栄した理想的な国家ができたとしても、アメリカはチベットやウイグルに侵略したことになります。 この場合、アメリカ軍は、チベット人やウイグル人の夢である独立を支援し、繁栄と幸福をもたらしたと言うべきであって、侵略と呼ぶべきではありません。 満州事変と満州国建国は、人々に幸福をもたらした正当な行為であり、日本の侵略ではないのです。 ◆日中戦争(支那事変)の経緯(1)――[盧溝橋事件] 1937年7月7日、「盧溝橋事件」は、蒋介石の国民政府軍に潜り込んだ中国共産党軍のスパイが、日本軍と国民政府軍の衝突を作り出し、「漁夫の利」を得るために発砲したことから始まりました。 それでも日本軍は攻撃せず、7月11日に事態収拾のための現地協定を成立させましたが、共産党スパイが繰り返す発砲に勘違いした国民政府軍が攻撃してきて、日本軍は「巻き込まれた」というのが真相です。 ◆日中戦争の経緯(2)――[通州事件] 日本の不拡大方針が堅持される中、国民政府が一転して対日交戦を決定、7月29日には「通州事件」が起き、200人以上の日本人が、人間とは思えない方法で惨殺されました。 この報は日本にも伝わり、日本国民の怒りは頂点に達しました。 ◆日中戦争の経緯(3)――[第二次上海事変] 盧溝橋で始まった事変は、北支事変として収束に向かいましたが、本格的な「支那事変」は1937年8月13日、上海地区における中国側の攻撃に始まりました。 日本の海軍陸戦隊約4千人が、軽武装で日本人居留民を守っているところに、コミンテルンの手先、張治中(チョウジチュウ)将軍が、約5万の大軍で攻撃してきました。 翌8月14日、蒋介石軍は、アメリカから提供された戦闘機で、シナ人を中心とする民間人がいるホテルや避難所を攻撃して、3600名余りを死傷させ、「キリスト教の中国が、異教の日本に蹂躙されている」イメージの情報戦を展開しました。 日本は通州事件のような惨劇を繰り返さないために、陸軍を派遣しましたが、蒋介石が招いたドイツのゼークト大将(防御陣地造りの権威)による作戦で、日本軍は約4万もの大損害が出ました。 その後、南京攻略への上陸作戦で、上海の背後を衝く形をとったことで、中国軍は総くずれになりました。 (つづく) 今こそ、『神のある民主主義』へ移行すべき時! 2015.09.25 文/幸福実現党・北海道本部副代表 森山佳則 ◆日本は神々が育んできた「世界史の奇跡」 古来より日本は、神々に護られて、2700年以上、統一国家として繁栄してきました。 孔子や老子の時代よりも古い時代に「神武天皇の東征」が行われています。その神武天皇から現在の今上天皇まで連綿と続く世界最古の歴史を持っているのが、私たちの国です。 日本は、神々が育んできた「世界史の奇跡」でもあるのです。 先の大東亜戦争においても、同じアジアの国々が、欧米諸国の植民地支配を受け、隷従の身となって、迫害・搾取を受け苦しんでいるのを解放するために戦いました。 戦争には、アメリカ合衆国には敗れましたが、その後の歴史を見れば、アジア・アフリカにおいても植民地がなくなり、ほとんどの国が独立を果たしました。 日本の神々が目指した、植民地支配を終わらせるという大義が成就したのであります。 しかしながら、戦勝国によって、戦後、日本は、侵略をした悪い国であるというレッテルを貼られ、戦後70年たっても、それを覆すことができず、日本の正当性を世界に訴えることができておりません。 これでは、戦争中に、わが身を捧げて、自国の防衛、そして、植民地解放のために、戦った先人に対し、子孫として申し訳ない限りであります。 ◆日本は祭政一致が国体 古来より日本では、神の心を受けた政治が行われてきました。 日本の歴史を見る限り、神と政治は一体化していて、いつも「神の心を受けて政治をやろう」としていたのが、昔からの伝統で、「神に向かって、みんながまとまろう」としてきた国でありました。 わたしたちは、何よりも「信仰心」と「愛国心」を持って、この国を護り繁栄させ、神々の意思を地上で実現する義務と権利を持っているのです。 ◆新憲法制定こそ神々の意思 現行憲法が最高の法ではありません。国民の平和と繁栄と幸福のために、その時代の現状に合わせ時々刻々と変えていくべきものが地上の憲法です。 憲法の上には、神の意思、もしくは、地球的正義があります。それを無視して、一国の利得のためだけに、法体系を創るべきではありません。 また、成文法のほかに、不文法があり、日本の国体、国としての連続性を護るために、法解釈をして、三千年近い国体を護る必要があるのです。日本の歴史は、戦後の70年だけではありません。 ですから、現行憲法は、敗戦後のどさくさの中で、日本の歴史・文化にも無知で、法律に素人の占領軍の一部の人が創ったもので、当然、日本に真の繁栄をもたらすものではありません。 日本の文化伝統を受け継ぎ、国際社会で日本が果たすべき使命も含めて、新しい憲法を制定しようと思うことが、本来の国民の姿であり、日本の神々の意思でもあります。 ◆霊性革命――霊言は日本を守る神の詔 今、数多くの霊言が、幸福実現党大川隆法総裁より、神々の世界、霊界から降ろされています。実際に、神々の言葉によって、良き方向へと日本を導こうとしているのです。 今回の安保法制においても、あれだけ、マスコミや野党から反対の論陣を張られ、ゆさぶりをかけられたとしても、今回、法案が通ったのは、安倍総理の信念が崩れなかったことと、自民党が割れなかったことが大きな要因です。 これは、大川総裁の霊言を通して神々の意思はここにあるのだと、神様を信じている人たちが信念を曲げなかったことが根本にあります。 また、安保法制反対の運動や、沖縄県知事の国防を揺さぶる動きが、左翼陣営やマスコミ等を通じて盛り上がった時は、東日本大雨や大洪水、火山噴火など、数多くの天変地異が起きました。 この謎解きは、日本の神々が、この国は価値があるので、護りなさいと言っているのであります。 ◆信仰革命の成就へ、今こそ、『神のある民主主義』へ移行すべき時 われわれは、そうした神々の意思を慮り、良心と良識で考えて決めていく、「神のある民主主義」に、入っていかなければなりません。 そうしなければ、日本を取り巻く危機的な混迷を打破し、その先に広がる世界の平和と繁栄の時代に移行することはできません。 現代の日本の神となっているマスコミが主導する「神のない民主主義」「人間のみの民主主義」の行く先は、他国に植民地化され、隷従する日本の姿しかないのです。 今こそ、本来の日本を取り戻すべく、「神のある民主主義」を進めていくべき時であり、不惜身命の精進を誓います。 韓国の反日歴史闘争 慰安婦の次は「強制動員記録」 2015.09.17 文/HS政経塾スタッフ 遠藤 明成 ◆戦前の「強制動員記録」の記憶遺産登録を目指す韓国 韓国紙の聯合ニュース(日本語ネット版)では、13日付と15日付の記事で、「日本植民地時代の朝鮮人強制動員被害記録」を国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界記憶遺産に申請しようとする動きを取り上げています。 13日付の記事では、「文化財庁の『2016年世界記憶遺産の登録申請対象記録物公募』に応募があった登録申請候補12件のうち、強制動員の被害記録物に関する資料は33万6797件に達する」と述べています。(「日本による強制動員被害」世界記憶遺産目指す=韓国) そして、15日付では、記憶遺産推進を目指す運動本部が、「日本はアジア太平洋侵略戦争を反省するどころか、端島(軍艦島、長崎市)を世界遺産に登録するなど、歴史を歪曲している」と主張したと報じました。(朝鮮人強制動員記録の世界遺産登録 推進本部が発足=韓国) 記憶遺産の認定は2年ごとなので、この申請がユネスコに来年3月までに提出された場合、17年の6月から7月頃にその可否が決まります。 ◆政治闘争の場となりつつあるユネスコ これは、産業革命遺産の登録を巡って、日本が韓国に妥協したことに付け込んだ政治闘争ですが、 現在、ユネスコが歴史認識を巡る政治闘争の場になりつつあります。 これは今に始まったことではなく、冷戦時代にも「ユネスコがイデオロギー上の戦場と化した」ことがあったと言われています。(「ロシアNOW」2015年9月10日付) 「ソ連はこの機関が西寄りであると非難し、1954年まで参加しなかった」 「80年代には、ユネスコが西側諸国に批判的であるとして米国がユネスコから脱退した」 などと言われているのです。 本来は文化振興のためにあるはずの国際機関が政治闘争の場になってしまっているわけです。 ◆訪日した朝鮮人労働者の大部分は「出稼ぎ」だった 韓国側は、戦時下に公権力によって朝鮮人労働者が日本に強制連行されたと主張しますが、歴史の実態はどうなのでしょうか。 これに関して、近現代史の研究家である西岡力氏は、日本に来た渡航者の8割は自発的に日本に来た出稼ぎ労働者であり、戦時動員が日本本土と朝鮮半島で行われただけだと指摘されています。(『日韓「歴史問題」の真実』第二章/西岡力(著) ) 日本は朝鮮を差別しておらず、日本で国民徴用令(1939)にて労働者が集められていた頃、朝鮮では募集制で労働者が集められていました。 徴用が朝鮮半島で開始されたのは1944年からなので、むしろ、日本列島より遅かったわけです。 西岡氏は、前掲書にて、当時の朝鮮人労働者の統計では、1939年から42年までの4年間で約2万人が不正渡航者として朝鮮に送還されたと指摘しています。 日本列島から労働者を朝鮮半島に強制送還しながら、朝鮮半島で労働者を強制連行しているというのは、おかしな話です。 書類不備の朝鮮人労働者も多く、33年から37年の5年間では108万人が日本への渡航出願をし、そのうち65万人が不許可とされていました。 わざわざ不許可を出していたのが実態なのに、強制連行を大体的に行う必要があったとは考えにくいのです。 ◆韓国に迎合せず、日本は歴史の真実を訴えるべき 朝鮮人労働者の多くは出稼ぎ労働者であり、朝鮮半島での戦時徴用は日本列島よりも遅れて実施されました。当時の朝鮮人は日本国民として本土の人々と同じように戦時労働に参加しただけなのです。 これは、当時、世界各国で普通に行われていた営みでしかありません。韓国の反日歴史闘争に対して、日本は歴史の真相を訴えて反論しなければなりません。 日本の魂の象徴――廃館の危機にある「新渡戸記念館」を守れ! 2015.09.16 文/幸福実現党・青森県本部副代表 三國佑貴 ◆日本の誇りのために闘い抜いた国際連盟の良心「新渡戸稲造」 1899年(明治32年)新渡戸稲造は、『Bushido ― The Soul of Japan 』(『武士道』) を著し、日本人の精神的な高みを世界に知らしめました。 そして、日本の文化水準を低く見ている西洋諸国に対して日本の誇りを示し、世界中で反日の嵐が吹き荒れる中、国際連盟の良心として、命が尽きるまで闘いを続け、太平洋の架け橋となり続けたのです。 新渡戸稲造、その父 新渡戸十次郎、祖父 新渡戸伝(つとう)の御魂が、青森県十和田市の太素塚(たいそづか ※新渡戸家三代のお墓)に祀られています。 不毛の荒野であった十和田市・三本木原を開拓した父と祖父、そして、国連事務局次長として世界正義の実現に尽くした新渡戸稲造の業績を顕彰する目的で、新渡戸記念館は、お墓に並立する形で建設されました。 記念館には、新渡戸稲造の遺品や蔵書、愛蔵品など、約8000点の文化遺産が展示されています。 ◆新渡戸記念館廃館に揺れる十和田市 現在、その新渡戸記念館が、廃館の危機に直面しています。 ※記念館廃館決定、法廷闘争へ 十和田市と新渡戸家、深まる対立(産経7/18) http://www.sankei.com/region/news/150718/rgn1507180044-n1.html 十和田市が記念館の耐震診断を行ったところ、コンクリートの強度不足により危険と判定され、6月末までに廃館、建物を取り壊し、今年度中に撤去するよう新渡戸家に求めているからです。 再調査を市に求めるも、小山田久市長は6月26日、廃館の決議を下しました。 一方的に廃館を決められた新渡戸家は、弁護団を結成。行政訴訟に踏み切り、青森地裁に提訴、法廷闘争へと発展しています。現在、新渡戸家は、十和田市に対して全面対決の姿勢を示しています。 代理人の松澤弁護士は、「急いで取り壊しが必要なほど本当に危険な建物なのか」と耐震性に疑義を示し、記念館の調査では強度的に問題はなく、現地を視察した建築家の話として補強は可能だとしています。 先日、新渡戸家8代目当主、新渡戸常憲館長をご訪問した際に、館長は「稲造と同じように、私も不正に対して、一歩も引くつもりはない」と熱く語っておられました。 また、「廃館の通知は2枚の文書のみ。何の対話もないまま、HPが削除され、電気、ガス、水道等も止めると言ってきた。あまりにも理不尽な対応。地域の文化や歴史を後世に遺していくということに関して、何の配慮も感じられない。」と怒りを露わにされました。 いま、新渡戸家の方々の訴えは、全国の有志の方々へと広がっています。 新渡戸記念館 HP 「新渡戸記念館休館の経緯と現状ならびに諸問題について」 http://www.nitobe.jp/ ※十和田市長宛ての抗議署名活動を展開中。 十和田市と「武士道の源流」となった新渡戸家の争いは、市政を超えた、国家の未来に関わる重大問題です。 ◆武士道精神を未来に 太素塚を守る新渡戸家の皆様には、決して信念を曲げない稲造先生の遺志と共に、勝訴を勝ち取って頂きたいと強く祈念します。 そして、市政が、命を懸けて日本を守ってきてくださった先人の方々の歴史を葬り去り、国家の誇りに傷をつけるような悪を犯させないよう、武士道精神を後世に伝えていって欲しいと思います。 どうか、日本の未来を憂うる有志の皆様の応援をお願いします。 【参考】 ・新渡戸稲造著「武士道」 ・産経ニュース2015.7.18 ・河北新報 2015.5.29 / 6.03 すべてを表示する « Previous 1 … 3 4 5 6 7 … 30 Next »