Home/ 歴史認識 歴史認識 日韓外相会談は、日本側の敗北――交渉力ある政治家の養成と輩出を!【前編】 2016.01.09 文/幸福実現党・京都府本部副代表 植松みつお ◆日韓外相会談は、日本側の敗北 昨年末、岸田文雄外相は、日韓外相会談について、訪韓前に記者団に次のように語りました。 「大変重要な会談になると考えており、全力で取り組みたい。慰安婦問題は大変難しい問題だが、ぎりぎりの調整を行いたい」と強調しました。(産経2015.12.28) そして協議の進行次第では「会談中止」も辞さない構えで臨みました。 それが、韓国側は現政権下では「慰安婦問題に対して自制する」という確認をしただけで、日本政府、安倍晋三首相が元慰安婦にお詫びと反省を表明することや、元慰安婦支援に約10億円を拠出することを約束させました。 さらに合意のほとんどが「努力目標」で、共同発表をするにはしたが文書化はしておらず、これでは拘束力は全く無いという有様です。 結局は、日本側からの「持ち出し」の方が多くなるだけで、韓国側に有利な外交的勝利であり、安倍首相がいう「日韓が新時代に入る」ほどの内容もありません。 ◆日韓合意に対する韓国の世論 日韓合意がなされた後、元慰安婦の多くや支援団体「韓国挺身隊問題対策協議会」(挺対協)は、合意に反発、今や聖域化した韓国内の世論を説得することは容易ではありません。 さらに、日本側が撤去を求めた在韓日本大使館前の少女像も韓国政府の努力待ちです。本当に、岸田外相は何のために行ったのか全く解りません。 韓国政府に「朝貢」したかっただけの外交交渉ならば、「日本側の敗北、韓国側の勝利」での終幕であり、とんだ年末のドタバタ劇だったと言えます。 ◆自民党と外国メディアの反応 これについては自民党内からも「日本側がわざわざ韓国に赴き、妥協して合意する必要はなかった」と批判する声も上がって来ています。 一方外務省筋では、共同記者発表という形をとったことで「国際社会全体が目撃者になった」と脳天気な捉え方をしています。 確かに、海外メディアでは「歴史的」(米紙、英BBC)だとか「画期的な合意」(豪ABC)という声もありますが、「ぎくしゃくした日韓関係の改善を望む米国の圧力が背景にある」と冷静に見ている筋(英紙)もあります。 ◆「河野談話」の大きな罪 そもそも、国際的にも慰安婦問題が、広く知られるようになったのは20年前の「河野談話」からです。その当時のことを河野洋平氏は昨年、山口市内で講演し、平成5年に自らが発表した官房長官談話(河野談話)に関する検証報告書について以下のように述べました。 「報告書は引くべき所も足すべき所もない。すべて正しい。日韓関係を良好なものにするために談話を出した。」 慰安婦募集での日本軍の強制性については、「当時、軍に慰安所があったのは事実だ。慰安婦の中には自分の意思で来た人もいるかもしれないが、中に入ってしまえば軍の命令には逆らえない。そうした意味での強制性があった。」 更に「『昔はよその国もやっていた』と口にするのは卑怯なことだ」と述べました。 談話を作成した理由についても「資料や関係者の話はもとより、被害者である従軍慰安婦本人の口から当時の話を聞き、日本は反省しなければならないと感じた。官房長官として日本を貶めるわけがない」とも述べています。 ◆ 事実ではなかった日本軍の慰安婦強制連行 しかし、文献的にも、当時、日本軍が慰安婦を強制連行したという「仮説」はその後の調査研究によって、事実ではないと結論が出ています。 その第一人者が秦侑彦氏で、戦争と慰安婦の実態をよく調べた書『慰安婦と戦場の性』では、吉田清治の詐話や「河野談話」の禍についても言及され、国連人権委員会を舞台にした日韓の攻防戦も詳しく記述しています。 その『あとがき』には、「こうした経緯は、やはり流行の南京事件や禁煙権論争に似ている。事実関係の確認よりも、政治的都合が先行して、一種の魔女狩りと化してしまうと、冷静な討議や比較論は誰も受け付けなくなってしまいがちだ」と。 残念なことに、政府及び官僚、マスコミの勉強不足や自分勝手な思い込みから慰安婦問題について、韓国側の主張を鵜呑みにしているマスコミや教育関係者など、少なくありません。 せめて、良識ある国民ならば、もう少し、情報源の第一情報を知る努力をし、さらにマスコミ情報、特にねつ造記事の多いA紙やN局は疑ってかかることです。 そして、地頭で考える習慣を持たないといけないのではないでしょうか。 (つづく) 慰安婦問題の終わりのはじまり 2015.12.31 文/HS政経塾4期生 窪田 真人 ◆「慰安婦問題」で日韓合意!? 日韓両政府は12月28日の外相会談で、旧日本軍の慰安婦問題の決着で合意したと、マスコミ各社が報じました。 なお日韓外相会談では、おおむね以下5点のことが合意されました。 1.当時の日本軍の関与のもとに、多数の女性の名誉と尊厳を傷つけたことに対して、日本政府は責任を痛感している。 2.安倍首相はそのことに関して、心からの反省とお詫びを表明している。 3.韓国側が設立する財団に、日本政府の予算から資金(10億円)を拠出し、心の傷を癒す措置を講じる事業を支援していく。 4.在韓日本大使館前に置かれた元慰安婦の少女像に関しては、韓国政府はそれを移動すべく関連団体と協議し、適切な解決に向けて努力する。 5.今般の合意は「最終的かつ不可逆的」で、日韓両国は今後、国連など国際社会において、互いを非難することをしない。 上記合意を通し、岸田外相は「日韓間における従軍慰安婦問題の終結」を表明し、同盟国であるアメリカもまた日韓慰安婦合意を評価することを表明しています。 では、この日韓合意について我々はどのように評価するべきなのでしょうか。 ◆日本は白旗を上げた! 今回の日韓合意、その実態を踏まえると残念ながら全く評価されるものではありません。 そもそも従軍慰安婦なる存在は朝日新聞の一連の捏造報道が元になってつくられたものであり、全くのでたらめです。 韓国が外交上の切り札としてこのでたらめを使い始め、河野・村山談話を通し、日本が韓国に対して公式謝罪をしてしまった結果、世界中に「従軍慰安婦は存在した」、「日本は朝鮮の方々に悪いことをした」という認識が広まってしまいました。 また皆様ご存知の通り、1965年日韓国交正常化にあたって結ばれた日韓請求権・経済協力協定にて、日本は韓国に5億ドル(当時の韓国国家予算のほぼ2年分)の経済協力等を行い、日韓の賠償問題については完全かつ最終的に解決されています。 こうした背景があるにも関わらず、日本政府は「心の傷を癒す措置を講じる事業」に対する支援として、元慰安婦へ10億円もの財政支援を行おうとしているのです。 さらに岸田外相は共同記者発表で「当時の軍の関与のもとに多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題であり、日本政府は責任を痛感している」と強調しました。 この主張は今年8月14日に出された戦後70年談話以上に、日本の戦争責任について言及した内容です。 こうした姿勢は「日本が従軍慰安婦問題を認めた」と諸外国に発信することに繋がります。 実際にこの日韓合意を受け、NYタイムズなど海外の大手メディア各社では「日本が従軍慰安婦問題を認め謝罪した」との認識のもと記事が多数書かれています。 以上をまとめると、日本は今回の日韓合意を通して、韓国のプロパガンダを認め、全く支払う必要のない10億円もの大金を国民の税金を元に韓国に支払い、さらには「日本が従軍慰安婦問題を認め謝罪した」と世界中に発信してしまったのです。 これは、従軍慰安婦問題について日本は韓国に白旗を上げたと言わざるを得ません。 ◆韓国の国益優先!迷走中の安倍内閣!! 従軍慰安婦問題が日韓の間で解決されたかのように報道がなされていますが、全く以てそんなことはありません。 そもそも50年前の1965年に決着がついているはずなのに、韓国は(朝日新聞の捏造記事が出されて以降)何度も従軍慰安婦問題を蒸し返しています。 韓国政府の「蒸し返さない」という言葉は全く信用できるものではありません。韓国は近い将来、新たな謝罪や補償を求めてくるでしょう。 また韓国側の強い要望により、今回の慰安婦問題合意は前代未聞の口約束形式でなされ、合意文書作成・調印見送りがなされました。 さらにソウル日本大使館前にある慰安婦問題を象徴する少女像については市民団体の意向次第とされ、撤去が約束された状態ではありません。 このように、日韓合意の内容は韓国に大きく譲歩したものになっています。 現在韓国は、最大の輸出先である中国経済の悪化の影響を受け、大きく経済が後退しています。 2015年10月の韓国の輸出額は前年比15.8%減少しました。輸出依存度が高いことで知られる韓国にとっては大きな打撃です。 こうした状況下において韓国の視点から考えると、日本との関係を改善し、経済関係を強化することは避けて通ることはできません。 外交交渉上日本はその点を大きく利用し、最大限自国の利益を確保するべく努めるべきでした。 にも関わらず、なぜこのように韓国にとって大変優位な合意内容になるのでしょうか。全く以て日本政府の意向が理解できません。 今回の合意は、これからさらに多くの問題につながるでしょう。 ◆日本と世界のあるべき発展のために そうした中で今、我々にできることは、「従軍慰安婦問題はデタラメである」という正しい歴史観を世界に発信し続けることでしょう。 そして従軍慰安婦問題の諸悪の根源となっているのが、河野・村山両談話の存在であり、一刻も早く両談話を撤回しなくてはなりません。 幸福実現党は歴史認識を巡る日本の名誉回復に向けて、自虐史観談話の撤回をはじめ、東京裁判史観の払拭に引き続き取り組んでまいります! 真実の下に日本、そして世界の発展を実現して参ります!! 参考:【幸福実現党声明】日韓外相会談を受けて http://shaku-ryoko.net/education/6914/ 大人のための教科書にさよならを! 2015.12.11 文/幸福実現党 兵庫県本部副代表 みなと侑子 ◆三省堂の謝礼金問題 三省堂が検定申請中の教科書を教員に見せる名目で「編集会議」を開き、参加した校長らに謝礼金5万円を支払っていたことが明らかになりました。 同社は2009~2014年の間で計7回開催。新たに参入する小学校の国語、中学の国語と英語の教科書を見せていました。 参加したのは、東京や大阪をはじめとする26都府県の公立小中の校長や教頭ら53人でした。この会議では、懇親会・二次会が行われており、参加者は都内のホテルに宿泊していました。 謝礼金に加え、交通費や懇親会費・宿泊費などすべてを三省堂側が負担していたようです。 2014年の教科書検定の際、この会議に参加した小中学校の校長ら11人中5人が地元での採択に関わりました。教科書委員会が教科書を選ぶ際に助言する「調査員」になっていたのです。 文科省や業界団体の規則で、検定中の教科書の外部閲覧や過度な営業活動は禁じられています。 今後、教科書採択に関わった教員の地域で三省堂の教科書が使われているかの調査が行われます。教員の利己的な都合によって選ばれた教科書を使うのは生徒たちです。 モラルの低い教員と、利益第一主義の教科書作成会社が作り出す罪は大きいのだと知ってもらいたいと思います。 ◆育鵬社の教科書採択への嫌がらせ 一方で教科書採択の際に、偏った思想を持つ人たちによる妨害活動を経験しているのが育鵬社の教科書です。 神奈川県横浜市において、歴史・公民が育鵬社に決定した瞬間、傍聴席からは「えー」という声が上がり騒然とした雰囲気に。納得出来ない人たちが早速街宣活動をしていました。 4年前にはじめて育鵬社が採用された時は、反対派は扉を蹴飛ばしたりして暴れたり、傍聴席を求めて集まった約400人はほとんどがグループで、教職員団体などが多かったのです。 また大阪府東大阪市では、育鵬社に決定した瞬間、傍聴席から反対の声が上がり、止まらないヤジに委員長が退席を促しました。 翌月の委員会でも抗議のプラカードが複数掲げられ、警察が出動する事態となったのです。 育鵬社の教科書を選択肢に入れると妨害活動や採択を邪魔される可能性があるため選択肢から外した自治体がある可能性も高いと「Are You Happy?」は指摘しています。 参考:Are You Happy?1月号『THE REPORT』 「日本がもっと好きになる」育鵬社の教科書のシェアがアップ ! https://www.irhpress.co.jp/products/detail.php?product_id=1596 確かに聞いた話では、兵庫県のある市の教科書展示会ではそもそも育鵬社の教科書自体を展示していなかったそうです。 左翼勢力が強い地域であったためか、トラブルを避けるためか真相は分かりませんが、一部の考えで勝手に教科書を選別してよい訳がないのです。 ◆生徒に夢と希望を与える教科書を このような事件を聞くと、教科書は一体誰のためのものなのか?という素朴な疑問が湧いてきます。 もちろん、教科書は生徒たちのためのものです。 教科書には、今まで知らなかった世界、宇宙の秘密、あったことのない人たちの歴史など、空間や時間を超えて様々な情報が詰まっています。 これらが生徒の認識を広げ、新しい世界を教えてくれます。その延長に夢や希望を見つける生徒も出てくるでしょう。 教科書は彼らが社会に繋がっていくため、未来を創っていくための重要なツールであり原動力なのです。その教科書が大人の利益の対象になったり、偏った思想を持つ人の道具にされることは絶対に許されることではありません。 また、過去に出された自虐談話は、河野・村山談話だけではありません。 日本が、「中国・韓国に過去に重大な損害を与えたことの責任を痛感し、深く反省している」という趣旨を歴史教科書の内容に十分反映するように配慮すべしとした宮澤談話も存在しています。 この歴史認識は大きく間違っている上に、自国の教科書に自虐史観を入れた場合、国民は自信を失い、国力が衰退することはすでに歴史によって証明されています。 未来を拓くためにはどのような教科書が必要なのか、私たちは本気で考えていかなければなりません。大人に利用され続けてきた教科書には、さよならを言いたいと思います。 習近平は、毛沢東が「親日」だったことを知っているか【後編】 2015.12.09 文/幸福実現党・政務調査会チーフ 小鮒将人 ◆毛沢東が持っていた「歴史認識」 今回は、書籍「毛沢東」(遠藤誉著/新潮新書)より、毛沢東の「歴史認識」が現在の中国や韓国の指導者と全く異なることを幾つかの事例を通じて、お伝えいたします。 (1) 1956年9月、元日本陸軍の遠藤三郎元陸軍中将が、北京で毛沢東と会談した際に、以下のような言葉を述べたことが書籍「廖承志と日本」に記録されています。 「日本の軍閥がわれわれ(中国に)進攻してきたことに感謝する。さもなかったらわれわれは今まだ、北京に到達していませんよ。」 (2) 1961年1月、社会党の国会議員との対談でも、以下のような言葉を語っています。(「毛沢東外交文選」より) 南郷三郎氏と会ったとき、(南郷氏が)「日本は中国を侵略しました。お詫びのしようもない」と言いました。 私(毛沢東)は「あなたたちは、そういう見方をすべきではない。日本の軍閥が中国のほとんどを占領したからこそ、中国人民を教育できたのです。さもなかったら、中国人民は覚悟を抱き団結することができなかった。」 「そうなれば私は今もまだ山の上にいて、北京で京劇を観ることなどできなかったでしょう。(中略)もし、感謝という言葉を使うなら、私はむしろ日本の軍閥にこそ感謝したのです。」 さらに、1964年、社会党の訪中時にも、ひたすら謝罪の言葉を重ねる社会党議員に対して、毛沢東は同様に、日本軍への「感謝」を表明しているのです。 ◆「南京大虐殺」について一度も触れた事がない さて、「毛沢東」(遠藤誉著/新潮新書)では、毛沢東と「南京大虐殺」についての関連についても触れています。実は、毛沢東は、一度も「大虐殺」に触れたことがないのです。 「少なくとも毛沢東は新中国が誕生した後、そして彼が生きていた間、ほぼひとことも『南京大虐殺』に関して触れたことがない。教科書でもほとんど教えたことがないし、何か人民に向けたスピーチなどで取り上げたこともない。」 「毛沢東」を尊敬し、見習っている習近平氏は、ぜひこの部分に注目していただきたい。 プロパガンダのプロでもあった毛沢東が全く触れなかったというのは、実際に起こっていなかったからです。 その説を裏付けるデータがここに掲載されていました。 中国共産党の機関紙「人民日報」に「南京大虐殺」という言葉が何回でてきたのか、実際に調査した方が香港に居たそうです。その結果、 1946年~1960年 21回 1961年~1982年 0回 1982年~2105年 835回 1946年の第1期に掲載されたのは、東京裁判のテーマになったからであろうと推測されます。 しかし1982年以降の数字は常軌を逸しており、やはり何らかの政治的な意図があったものと推測せざるを得ません。 その「南京大虐殺」を大々的に宣伝したのが江沢民です。 ◆江沢民の父は親日政権の元宣伝部長 江沢民はなぜ、これほどまでに反日の姿勢をつくろうとしたのでしょうか。 一つの説得力のある話として、彼の父親が大東亜戦争当時の汪兆銘政権で宣伝部長を行っていたということが大きいと言われています。 汪兆銘政権は毛沢東、蒋介石とは異なり、親日政権として東條英機首相が主導した大東亜会議にも中国代表として参加しました。 江沢民氏はそうした親日のレッテルが自らの政治生命を危うくするものだと感じたのかもしれません。いずれにしても、結果として、江沢民の時代から異常な反日教育が始まっているのです。 ◆習近平は、ユネスコ遺産登録を速やかに取り消すべし 毛沢東は、明確に「南京大虐殺」に触れたことは一度もありませんでした。 彼は、表向きだけでも日本軍と戦った当事者で、本来、彼こそが民族の悲劇に対して主張すべき立場にいた人間であります。 現在、「毛沢東主義」を掲げ、国家の近代化を遅らせようとしている習近平国家主席には、以上のような事実をしっかり認識し、南京大虐殺について述べたことがない毛沢東を見習って、ユネスコ世界記憶遺産の登録取り消しを速やかに行うことを勧める次第です。 参考図書:「毛沢東」遠藤誉著/新潮新書 習近平は、毛沢東が「親日」だったことを知っているか【前編】 2015.12.05 文/幸福実現党・政務調査会チーフ 小鮒将人 ◆書籍「毛沢東」出版の衝撃 2015年11月、遠藤誉著「毛沢東」(新潮新書)が出版されました。 著者は、1941年(昭和16年)中国吉林省長春(元満州国新京市)生まれ、国共内戦を経験し、1953年日本に帰国、現在は、東京で大学の教鞭をとっており、自らの経験を数冊の書籍にまとめています。 この書籍の中では、中華人民共和国建国の父である毛沢東について、我々日本人があまり知る事のない事実が記載されています。 一部は、著者の推測があるものの、筋を立てて確認すると、非常に説得力があり、日中双方にとって衝撃的な内容です。 今回は、その書籍で日本との関わりについて重要な部分についてお伝えいたします。 ◆明治維新へのあこがれが強かった 毛沢東は、清朝西太后の時代、1893(明治26)年、富裕な農家に生まれました。 当時、清は、欧米の帝国主義によって、その広大な領土が蚕食されつつあり、国家の危機の時代でした。 毛沢東は、幼少時から強い学問への情熱を持ち、様々な書籍を読み漁るうちに、この危機を乗り越えるためには、日本の明治維新の「富国強兵」を手本にすべし、と強く感じました。 たとえば、故郷を離れる際に父親に送った漢詩は西郷隆盛の逸話に関するものでありました。 また、宮崎滔天が湖南省に演説に来たときにも、その演説に感激、さらに日本への尊敬の念を強めたと言われています。 ◆中国共産党の立党から大東亜戦争まで さて、この書籍では、毛沢東及び中国共産党の党史が分かりやすく記載されています。 実は、ソ連(コミンテルン)は、マルクス理論に基づき、「労働者による革命」を欧州で実現しようと画策しますが失敗に終わり、その矛先を中国に集中的に絞りました。 中国共産党は1921年に立党しますが、これはコミンテルンのおぜん立てによるもので、実際のところ、ソ連の傀儡でした。 当時、清朝を倒した孫文の国民党とは天地ほどの差があり、政治勢力として対抗できる力は全くありませんでした。 そこで、ソ連(コミンテルン)は「やどかり理論」と称して「国民党との共同歩調(国共合作)」を指示しました。 孫文の考えは共産革命の理論とは正反対で、共産党は当初、全く相手にされませんでしたが、ソ連が国民党に協力することを伝えることで、最終的に合意しました。 しかし、共産党がその勢力を拡大し、力を付けてくると、国民党から分離し、独自の「国家(中華ソビエト共和国)」を建設し、国共内戦が始まります。 当時は国民党が圧倒的に有利であったために、毛沢東はただ逃げるしか方法がありませんでしたが、ここで「救い」がやってきます。日本軍との戦いが始まったのです。 「盧溝橋事件」がきっかけとなり、日中間の戦争が始まりますが、実際はコミンテルンの謀略だったという説も根強くありますが、いずれにしても、「中国」は日本との戦争がはじまり、再び「国共合作」によって、毛沢東と蒋介石は手を組むことになります。 しかし、毛沢東は原則、日本軍との戦いを厳禁します。それは、国民党と日本とを戦わせることで、国民党軍を消耗させるためであったのです。 やがて米国も対日参戦し、大東亜戦争の開始という状況になりましたが、こと中国国内に焦点を当てると、実態は「日本軍と国民党軍」との戦いでした。 共産党側は高みの見物という図式で、終戦まで共産党は、徹底して日本軍との戦いを避けました。 ◆日本陸軍の将官を北京に招く 大東亜戦争終了後、再び国共内戦が始まります。その中で、毛沢東、蒋介石双方が、日本陸軍の力を活用したいとの思惑がありました。 書籍「毛沢東」では、元支那派遣軍総司令官の岡村寧次大将を特に毛沢東が、熱烈に待ち望んでいる様子が描かれています。 岡村大将は、大東亜戦争の「大陸打通作戦」で、中国(国民党)軍を徹底的に破った名将でした。 彼は、終戦後、蒋介石の演説に感動して、記憶後「白団」を組織し、台湾の大陸奪還の助力をします。 毛沢東には、彼の力が無視しがたいほど大きなことを認め、突如数回にわたり、「旧日本陸軍の軍人」を北京に招きます。 実は、本音として招きたかったのは、岡村大将でした。しかし彼は、蒋介石に強い恩義を感じていたため、北京政府に詣でるようなことは決してしませんでした。 しかし、こうしてみる限り、毛沢東率いる「中華人民共和国」は、一貫してそのターゲットを「中華民国」に定めており、おそらく日本軍との大規模な会戦を戦ったことはほとんどなかったことが伺えます。 現在の「中華人民共和国」の習近平主席にはこうした歴史認識を持っていただきたいものです。 辺野古反対の背景にある中国反日運動の黒い影 2015.11.25 文/HS政経塾2期卒塾生 服部まさみ ◆地方議会で相次いで可決される辺野古反対意見書 フィリピンで行われたオバマ大統領との会談で、米軍普天間飛行場移設問題について安倍首相は「辺野古が唯一の解決策。確固たる決意で進める」と日米合意を堅持し、対抗措置を取って工事を再開していることを説明。 オバマ大統領が謝意を示すなど順調に見える日米関係ですが、その背後に何やら怪しい影が潜んでいます。 産経新聞によると、全国の地方議会が移設反対や建設工事中止を求める意見書を相次いで可決しているというのです。 そのうち25件が衆院に提出され、その他にも首相宛ての意見書が39件、防衛相、外相にも多数の意見書が提出されています。 沖縄県の市町村議をはじめ、菅直人氏の地元でもある東京都武蔵野市や国立、小平市議会、長野県の4町村議会、愛知県岩倉市議会など左派の政党や無所属会派が多い自治体で「地方自治体の尊重を求める意見書」が可決されています。 意見書は「基地強化は、沖縄県民を再び戦争の惨禍に巻き込む危険性を高める。沖縄の民意を踏みにじって基地建設を強行することは地方自治の侵害と言わざるを得ない」とし、地方自治を尊重するよう求めています。 また、大阪府吹田市と兵庫県尼崎市議会では名護市の建設反対意見の尊重を決議しています。 このような意見書にあまり拘束力はありませんが、政府や国会に圧力をかけて政策変更の流れをつくろうとする手段として使われています。 ◆慰安婦問題の既成事実化と同じ構造 さらに、この動きが慰安婦の既成事実化につながったことと極めて似ているのです。 2007年米国議会において、マイク・ホンダが中心になって、従軍慰安婦問題で日本を非難する決議案が採択されましたが、このマイク・ホンダを下積み時代から支援していたのは「世界抗日連合会」という反日団体です。 「世界抗日連合会」は主要30カ国以上の中国系、韓国系、日系団体が結集し、世界中に網の目のようなネットワークを持つ巨大な組織です。『ザ・レイプ・オブ・南京』の著者アイリス・チャンもメンバーでした。 もちろん中国共産党とは深い関係にあります。 この反日団体が2007年に米国議会で日本を非難する決議案を採択した次に行ったことは、日本の地方議会で、慰安婦問題で政府に国家賠償や公的謝罪を求める意見書を数多く提出するということだったのです。 2008年から2013年にかけて全国の地方議会で意見書が提出され、そのうち民主党や共産党などの左派が多い42市議会で可決されています。 反日団体が地方議会に意見書を提出させる目的は、「日本の地方議会も政府に対応を求めている」などと国際舞台で利用できる法的論拠をつくるためです。 米国における従軍慰安婦像設置でもこの論拠を利用し、既成事実化されてしまったのです。 従軍慰安婦問題の場合、河野談話の存在もありますが、もし、新しい談話が発表されても地方議会で認めておけば、「国民の声をきかない政府」というレッテル貼りができ、プロパガンダとして十分に使えるからです。 そのため、辺野古反対の意見書も地方議会だけの動きだとあなどってはいけません。 ◆背後で操る中国共産党 しかもこの「世界抗日連合会」は、世界の反日組織の一部でしかありません。 中国の呼び掛けで2003年、韓国、北朝鮮、アメリカ、日本、フィリピン、オランダの反日グループのリーダーが上海に集まり、国際反日ネットワーク「日本の過去の清算を求める国際連帯協議会」が結成されました。 巨大なこれら世界の反日組織のまとめ役になっているのが中国政府のシンクタンクとして4200名の研究者を擁し大きな影響力をもつ「中国社会科学院」なのです。 「世界抗日連合会」は国際反日ネットワーク「国際連帯協議会」のアメリカ支部という位置付けでしかありません。 そして、従軍慰安婦問題と同じように米国でも辺野古移設に反対する地方議会が出てきました。 カリフォルニア州バークレー市議会は今年の9月15日、米国議会で初めて辺野古移設計画の中止を米政府に求める「沖縄の人々を支援する決議」を可決しています。ちなみに「世界抗日連合会」の本部はカリフォルニア州にあります。 また、今月19日には、辺野古移設計画に反対する沖縄県の地元財界人や有識者の団体が訪米し、ワシントンの米議会で説明会を開催し「民意を反映していない」として計画を見直すように求めています。 中国共産党は戦前から、「用敵」という「敵の手を使って、敵を打て」という考え方で日本を攻略しようとしているといわれていますが簡単に言えば「工作」です。 日本の中枢に入り込み、メディアを使った世論誘導や経済的利益、外交、観光などを通じて国民がコントロールされているのです。 今後の研究課題ではありますが、東京裁判やGHQの占領政策だけではなく、日本では戦前から中国共産党の対日工作が始まっていたという意見もあります。 知らない間に何となく世論を動かされ、指導者層の意思決定能力を奪われ、何となく現状を変えられ、最後に非正規軍によって制圧されてしまう。すでにこのような「戦争」が仕掛けられているのです。 「平和憲法を護れ!」、「沖縄の海を守れ!」と声高に叫ぶ人たちは中国人にとっての「平和」とは、「和を持って平らげる」(仲の良いふりをして、支配する。相手を滅ぼす)という意味だということを知るべきでしょう。 ◆本当の敵を知り行動する 米国における従軍慰安婦問題は、一部の活動家と有権者が日本を非難することを強く望み、他の多数派が黙っていたことが、結果的にいかにも全体の「総意」として望んでいるように映ってしまった点があります。 日本を守り、本当に勝つためには政府は場当たり的な対策ではなく、的確な情報を集め、分析し、重要人物や要所、要所を攻略していく必要があります。 辺野古移設で従軍慰安婦問題と同じ失敗を繰り返さないように、私たちはマスコミの世論誘導や「空気」に支配されることなく、本当の敵を知り、行動していかなければなりません。 日本は、日韓関係にどう立ち向かう? 2015.11.03 文/HS政経塾4期生 窪田 真人 ◆日韓首脳 3年半ぶり会談 2日午前、韓国訪問中の安倍首相はソウルの青瓦台にて、パク・クネ大統領と初めて個別に会談しました。 二国間の首脳会談は約3年ぶりであり、旧日本軍による従軍慰安婦問題について年内を含め早期妥結を目指す方針、また経済、安全保障の面で協力を強化する方針で一致しました。 なお会談時間のほとんどは、慰安婦問題についての話し合いに使われましたが、見解は平行線のまま、具体的な解決策が提示されることなく、終了しました。 ◆現在の韓国の状況 これまで従軍慰安婦問題を前面に出し、反日外交を進めてきたパク・クネ大統領が、なぜこのタイミングで安倍首相との個別会談を受け入れたのでしょうか。 その背景には経済・外交の両面における韓国の苦しい事情があります。 現在の韓国は、同盟国である米国と安全保障面でより強い関係を構築したい一方で、日本に対して歴史認識をめぐり共闘し経済の結びつきも強い中国と関係を維持せざるを得ない状況に置かれています。 すなわち米国、中国の間で大きく揺れ動いている、それが現在の韓国の状況です。 先月27日、米国政府が南シナ海での中国による人工島から12カイリ以内の海域に、アメリカ海軍のイージス艦を派遣し、航行させた件について、日本は米国の行動を支持する旨を表明していますが、韓国は、中国との経済的な繋がりを重視する姿勢から、自身の立場を表明していません。 しかしその中国は経済が悪化しており、先月10月の韓国の輸出額は前年比15.8%減少しました。輸出依存度が高いことで知られる韓国にとっては大きな打撃です。 こうした状況を踏まえ、韓国は日本との関係改善による経済活性化、また中国への経済依存の軽減を目指す目的で、今回の日韓首脳会談は行われました。 ◆元慰安婦への財政支援拡大!? 日韓首脳会談を受け、日本政府は対応策の検討に入っています。 特に慰安婦問題については、2007年に解散したアジア女性基金のフォローアップ事業の拡充を通し、元慰安婦への財政支援拡大を進めようとしています。 皆様ご存知の通り、1965年日韓国交正常化にあたって結ばれた日韓請求権・経済協力協定にて、日本は韓国に5億ドル(当時の韓国国家予算のほぼ2年分)の経済協力等を行い、日韓の賠償問題については完全かつ最終的に解決されています。 日本政府もその見解を持ちながらも、今回の会談を踏まえ、「基本的人権を踏みにじられた女性への人道的支援の充実」と称して、元慰安婦への財政支援拡大を行おうとしているのです。 こうした姿勢は「日本が従軍慰安婦問題を認めた」と諸外国に発信することに繋がりかねない為、絶対に実行されるべきではありません。 日本は、「従軍慰安婦問題はデタラメである」という正しい歴史観を世界に発信し続けるべきです。 そもそも現在の韓国の一番の問題点は歴史認識ではなく、経済における中国依存度があまりに大きいために、外交上中国に強く出ることができない状況、すなわち経済面にこそ大きな問題があります。 そのような状況下において、元慰安婦への財政支援拡大など日本にとって何もプラスに働きません。 ◆日本が目指すべき日韓関係の在り方 ただし、中韓の関係が更に強化される事態は避けなければなりません。 目指すべきは、日韓の経済的な繋がりが強化されることで韓国の対中国依存度を軽減し、日米韓における東アジアにおける安全保障体制を強化することです。 では日本はこの状況を踏まえ、何ができるのか。 その1つとして、韓国のTPP参加の後押し、協力を積極的に行うことが挙げられます。 特に韓国がTPPに正式に参加する場合、既に参加した12か国から厳しい市場開放などを求められることになりますが、韓国にその点を大きな負担と思わせることなく参加に導けるかが、日本に求められる役割となるでしょう。 日本が積極的に韓国のTPP参加に働きかけ、多くの輸出先が韓国に開かれれば韓国の対中国依存度を減らすことができます。 そして韓国は経済と外交の間で揺れ動く、現在の状況を一歩改善することができるでしょう。 日本は、こうしたアジアのリーダーとしての役割を果たしていくべきであると考えます。 1985年、トルコ政府がイラン駐在の日本人を救った理由 2015.10.24 文/幸福実現党・政務調査会チーフ 小鮒将人 ◆イラク・フセイン大統領が突然、「48時間後に撃墜宣言」! 前回は1890年、紀伊半島沖で発生したトルコ船の海難事故、そしてその救助に当たった日本人の対応に、多くのトルコ国民が感動をしたエピソードをお伝えしました。 今回は、映画「海難1890」に関して、事故からおよそ100年後、1985年(昭和60年)に中東テヘランで実際に起きた出来事についてお伝えいたします。 1985年当時、中東ではイラン・イラク間の戦争が長期化していました。当時、石油ビジネス関連の商社マンを中心に約二百数十名人がイランの首都テヘランに居住していたと言われています。 さて、イラクのフセイン大統領は、戦争の膠着状態を打破する事を意図したのか、1985年(昭和60年)3月17日、突然、以下のような宣言を公表しました。「今から48時間を過ぎれば、イラン上空を通過する全ての航空機を無差別に攻撃する。」 日本人を含め、テヘラン駐在の外国人にとって、この「宣言」は寝耳に水でした。諸国の駐在員は、制限の期日までに帰国の途に就こうとします。 しかし、当時、日本・イラン間の航空便が就航していない日本人には、帰国の手段がありません。駐イラン大使は日本政府に対して緊急に、飛行機の手配を依頼しました。 ◆日本政府が日本人を救出できなかった理由 依頼を受けた日本政府(当時は中曽根首相・安倍外務大臣)は、まず自衛隊機の派遣を検討しましたが、自衛隊法の制約で海外に飛ぶことが不可能ということが分かりました。 [その後、自衛隊法は改正され、現在では同様の事態が発生した時には、自衛隊機による救助は可能] そこで、直ちに日本航空に臨時便を要望しました。 イラン行きを志願するパイロットも出て、順調に出発する準備が進められたのですが、なんと、当時の労働組合が「乗務員の安全が確保されない状態では出発できない」という理由で、出発を拒否したのです。 戦争の中、しかも48時間後には撃墜される可能性がある危険な空域を飛ぶことには、大きなリスクがあります。 組合としての判断は「安全第一」というものでしたが、これも戦後一貫して「平和憲法」を奉じてきたために、リスクを冒すという発想がなかったのかもしれません。同じ日本人として、実に残念な判断でした。 ◆頼みの綱、トルコの判断は? イランに駐在する日本人達が脱出する手段は、他の国の力を借りるしか手段が残されませんでした。 それも極めて望みの薄いもので、時間がどんどん経過していく中、日本人たちの絶望がいかに大きなものであったのかが推測されます。 まず、欧米諸国の航空機会社に依頼して、一人でも多くのチケットの確保を目指しますが、相手は欧州人優先の判断で、ごくわずかに入手できたにすぎませんでした。 そこで、当時の野村豊駐イラン大使は、最後の頼みとして、トルコのビルレル大使を訪れ、トルコ政府に緊急便の依頼をしました。当時イランには、600人あまりのトルコ人がおり、とても日本の支援ができる状態ではなかったので、もともと諦めていたのです。 一方、トルコ政府に対しても、「商社」のルートを通じて、当時のオザル首相にも同様の依頼を行いました。日本人にとっては、ほとんど可能性のない希望でした。 しかし、トルコ側は、日本人が直面した事態の深刻さを理解し、直ちに臨時便の手配を承諾したのです。 その時にトルコのビルセル大使が日本を助ける理由として語った事が、「これは、エルトゥールル号の恩返しなのです」というものでした。 トルコでは「エルトゥールル号の海難事故」については、教科書にも掲載されるなど、100年前に日本人が心を尽くしてトルコ人を救助した逸話を忘れていなかったのです。 そして、先人たちが日本から受けた恩を返す機会だと、快く救助の手を差し伸べてくれたのです。 このように、トルコ政府の決断によって、「緊急の」旅客機1機が出発しましたが、1機だけでは、すべての日本人を救助することができないことが分かりました。 そこで、トルコ側は、もう一機の「定期便」も、日本人のために使ってもらう事を提案しました。 当時、イランに駐在していたトルコ人は、自らが乗り込む予定だった飛行機を諦め、自動車に分乗して、母国トルコに向かったのです。 かれらもこの決定について、「100年前の恩を返そう!」と一致し、ほとんど異論は出なかったと言われています。 このトルコによる救助によって、制限時間以内に、帰国を希望する全ての日本人が無事に日本に帰ることができました。 国際政治の判断には、国益と国益とのぶつかり合いの中で、冷徹な判断が求められるものですが、今回のエピソードのように魂と魂がふれ合う温かみがあることも分かりました。 そうした意味で、日本人として、先人たちの偉業を再認識し、日本人としての誇りを取り戻す一方、日本人を誇りに思っている国もあることを忘れない事も大切だと感じました。 トルコを熱烈な親日国に変えた「海難事故」について 2015.10.23 文/幸福実現党・政務調査会チーフ 小鮒将人 ◆映画「UFO学園の秘密」大絶賛公開中! 現在、全国で、映画「UFO学園の秘密」(幸福の科学出版作品)が公開されています。 宇宙との交流を取り上げている映画は今までにも数多く公開されていましたが、この映画では、宇宙人がさまざまなキャラクターを持っているという事実など、今までにない切り口で宇宙時代の到来を描いたお勧めの映画です。 米国でも同時公開され、「アカデミー賞」を取れるのではないか!と、ネットでも大きな反響をよんでいます。 まだ、ご覧になっていない方は、下記のアドレスからお近くの上映館を検索することができますので、ぜひご覧ください。 http://www.eigakan.org/theaterpage/schedule.php?t=384 ◆12月には「海難1890」(原題「エルトゥールル」)が公開! さて、引き続き12月には映画「海難1890」が公開されます。これは、今から125年前に実際に起きた海難事故と、その後の感動的なエピソードを描いたものです。 125年前の明治23(1890)年、トルコから一隻の軍艦が日本を表敬訪問しました。「エルトゥールル号」と言います。 この年の6月23日に東京で、明治天皇に対しトルコ皇帝からの親書を渡し、その後約3か月にわたり、日本各地で大歓迎を受け、トルコへ帰国することになりました。 ところが、その途上の9月16日、折からの台風が直撃し、エルトゥールル号は、紀伊半島沖の岩礁に激突、その結果、機関が爆発し、沈没するという悲劇に見舞われました。 この爆発にともない、司令官オスマン・パシャをはじめとする乗務員600人が海に投げ出され、多くの乗務員はこの海難で命を落とします。 悲劇的な事故の中、数少ない生存者たちは力を振り絞って、紀伊半島の最南端、大島村(現在は串本町に合併)潮岬付近の沿岸にたどり着きました。 ◆底抜けに善良な日本人にトルコ人が感動 この遭難したトルコ人の第一発見者は、樫野崎灯台の灯台守と言われ、直ちに、地元大島村の区長をはじめとする村民に伝えられます。 トルコ軍艦による明治天皇への表敬は、すでに日本人に知られていたので、事態の重さを感じた大島村民たちは、不眠不休の救助作業を行います。 特に、漂着した潮岬付近は断崖絶壁で、健康な人間でも上るのが困難な場所で台風の中、村民たちは、遭難者を一人ひとり縄でくくりつけ、崖の上に引っ張ったと言われています。 そうして助けたトルコの乗務員は69名。元々、食糧の蓄えが多いわけではありませんでしたが、村民は、浴衣などの衣類、卵、非常用の鶏も供出され、最大限の救護を行いました。 同時にこの大惨事は、明治天皇にも知らされ、天皇は政府に対し、可能な限りの支援を行うように指示がなされました。 各新聞もこの悲劇を報じたことで、日本全国から自発的に義捐金・弔慰金も寄せられました。 生存者の体力が回復した頃を見計らって、日本政府は海軍の最新鋭艦「比叡」と「金剛」の2隻に生存者を乗せ、トルコのイスタンブールまで送り届けることを計画、実行しました。 2隻になったのは、万一、片方の軍艦が沈没しても対応可能なように、との明治天皇の配慮と言われています。 なお、この中には、後の日露戦争、日本海海戦でロシアバルチック艦隊を相手に大勝利を挙げた秋山真之参謀も少尉候補生として乗り込んでいました。 この航海は、トルコの首都イスタンブールを目指しました。 順調に進み、とうとう、地中海からダーダネルス海峡、ボスボラス海峡を経て、トルコ領海に入るところまで来たのですが、大きな問題が発生しました。 ロンドン条約によって、上記の2つの海峡は「外国船」の通過が認められなかったのです。 実は、ここでいう「外国船」とはロシア船を想定しており、ロシアの南下政策への歯止めとなっていたのですが、日本にもこの条約が適用され、残念ながら、日本はトルコ領海に入る一歩手前のエーゲ海で、生存者を引き渡さなければならなくなったのです。 ところが、迎える側のトルコ国民にも「比叡」「金剛」の航海について広く知られており「日本人を首都まで迎えたい!」という要望が強くなりました。 そして、とうとうトルコ皇帝アブディルハミド2世は特例を認め、2隻がイスタンブールまで来る事を認めました。 1891年1月にトルコに到着し、生存者を送り届けた日本海軍の軍人たちは連日、熱烈な歓迎を受け、約1ヵ月滞在ののち、日本に帰りました。 ◆トルコが親日であった理由 トルコは、日本が「明治維新」という世界史的な奇跡、近代化を成功させたことと、同じ「ロシア」という巨大な敵国に直面していることで、親近感を持っていた中、このような日本人と明治天皇の善意に触れ、さらに好意をもったようです。 このエルトゥールル号の遭難事故について、日本人で知っている方は少なく、中学校の歴史教科書では扶桑社が掲載しているにすぎません。 しかし、トルコでは長年にわたって多くの国民に知られており、日本の外務省の調査によると、約3割のトルコ国民がこの事件を「知っている」と回答しました。 映画「海難1890年」では、日本とトルコ両国で育まれた友好関係について、1895年(昭和60年)イラン・イラク戦争の中で、突如発生した日本人の危機をトルコ政府が救う感動的な実話に基づいて物語がつづきます。 「正義の国・日本!」―満州事変から大東亜戦争まで【3】(全3回) 2015.10.20 文/幸福実現党・茨城県副代表 中村幸樹 ◆大東亜戦争の原因(1)――「人種差別による日本人排斥」 1919年、日本はパリ会議で、国際連盟規約への「人種差別撤廃条項」を提案し、賛成多数になるも、議長のアメリカ大統領ウィルソンは否決しました。 以後、アメリカの排日運動は勢いづき、1924年5月には、「絶対的排日移民法」が成立しました。 これで、親米的だった大部分の日本人が反米に変わり、日本政府のアメリカ協調外交も難しくなっていきました。 昭和天皇は、戦後「この大戦の遠因はアメリカ移民の問題であり、近因は石油が禁輸されたことである」との主旨を言われましたが、正鵠を得ていたと思います。 そして、正義は、「人種差別撤廃」「植民地解放」を目指した日本にあったからこそ、戦後のアジア・アフリカ諸国は、独立していったのです。 ◆大東亜戦争の原因(2)――「共産主義の工作」 1930年代のアメリカ政府には、共産主義のスパイが何百人も入り込んでおり、「ハル・ノート」を作成した財務次官補ハリー・ホワイトもソ連のスパイでした。 戦後の朝鮮戦争、ソ連との冷戦、ベトナム戦争、中共の台頭を見れば、共産主義を悪と見て、防共に努めた日本に、正義があったと言えます。 ◆大東亜戦争の原因(3)――「ホーリイ・スムート法に始まったブロック経済」 1929年、アメリカ下院議会に上程されたホーリイ・スムート法が、世界恐慌の決定打となりました。約1000品目の巨大な関税障壁により、一年後には、世界の貿易量が半分になりました。 1933年のオタワ会議で、イギリスもブロック経済に入りました。 アウタルキー(自国で出る原料・資源で経済的なことが完結できる政府)ができるアメリカ、イギリス、フランス、オランダ、ソ連は良くても、アウタルキーができない日本、ドイツ、イタリアには、致命的な問題でした。 戦後、ブレトン・ウッズ体制をとって自由貿易を推進したのは、ブロック経済、保護主義が、先の大戦の遠因だとわかったからです。 ◆大東亜戦争の原因(4)――「石油禁輸とABCD包囲網」 アメリカ、イギリス、シナ、オランダを抱き込んだABCD包囲網で、日本は資産を凍結され、石油や鉄など様々な原材料を輸入できなくなりましたが、致命的なのは石油禁輸でした。 大東亜戦争が自衛戦争であったことは、アメリカ上院軍事外交合同委員会におけるマッカーサーの証言でもわかります。 「日本は絹産業以外には、固有の産物はほとんど何もないのです。彼らは綿がない、羊毛がない、石油の産出がない、錫がない、ゴムがない、その他実に多くの原料が欠如…これらの原料の供給を断ち切られたら、一千万から一千二百万の失業者が発生するであろうことを彼らは恐れていました。従って、彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのです。」(マッカーサー証言 抜粋) 大東亜戦争の原因として、日本からアメリカに仕掛けたことは何もありませんでしたが、ルーズベルトは、ドイツと戦うためにも、何がどうあろうと、日本を戦争に追い込むつもりでした。 1941年2月には、日本と戦って屈服させた後の処理を研究する「特別研究部(SR)」を発足させ、7月18日には、150機のB17爆撃機と、250機の戦闘機で東京、横浜、大阪、京都、神戸への爆撃作戦「JB-355」も承認していました。 (戦線が急迫したイギリスに爆撃機を回して実施はされず。) ◆大東亜戦争は、「自衛権の行使」「植民地解放」「人種差別撤廃」の聖戦 大東亜戦争は、人種差別による日本人排斥、共産主義の工作、ブロック経済とABCD包囲網の経済封鎖で追い込まれ、特に石油禁輸が決定打となった「自衛戦争」でした。 日本は、戦わざるを得なくなった以上、正義を貫くべく、全占領地域で現地政府を樹立し、自主独立への教育訓練、人種差別撤廃を推進しました。 大東亜戦争は、「欧米列強から、アジアの植民地を解放し、白人優位の人種差別政策を打ち砕くとともに、わが国の正当な自衛権の行使としてなされたもの」「アジアの同胞を解放するための聖戦として、日本の神々の熱き思いの一部を実現せしもの」(『大川談話』)だったのです。 大川談話―私案― http://special.hr-party.jp/policy2013/okawa-danwa/ 「大東亜戦争は神の意を受けた聖戦であり、激戦の地で戦死した先人たちは英雄である。」(真の平和に向けて あとがき)と断言し、筆を終えます。 『真の平和に向けて』大川隆法著/幸福の科学出版 https://www.irhpress.co.jp/products/detail.php?product_id=1464 すべてを表示する « Previous 1 … 3 4 5 6 7 … 30 Next »