Home/ 歴史認識 歴史認識 「沖縄2大紙」の歴史から見る反日思想 2014.11.08 文/HS政経塾 4期生 幸福実現党 大阪本部副代表 数森圭吾 ◆沖縄の2大紙 沖縄では11月16日に沖縄県知事選挙の投開票が行われ現地新聞も選挙関連の記事を多く報道しております。 沖縄には「琉球新報」と「沖縄タイムス」という新聞があり、両紙は「沖縄2大紙」とよばれています。この2紙は反日、反米的主張が多いと言われていますが、その背景を歴史的な視点から検証してみたいと思います。 ◆アメリカ軍と2大紙の創刊 先の大戦において、沖縄本土に上陸した米軍は1945年4月1日「琉球列島米国軍政府」を設置し沖縄占領統治を開始しました。ここにおいて米軍政府は沖縄と本土の分断し、沖縄統治を円滑にすすめるために反日宣伝工作を行います。 米軍の沖縄統治は本土のように日本政府を通した間接統治ではなく直接統治でした。このため米軍政府のとった検閲政策はプレスコードやラジオコードによる検閲ではなく、直接米軍の方針を反映できる米軍広報機関として現地に新聞社をつくるという直接的なものでした。 そこでつくられたのが占領下初の新聞である「ウルマ新聞」であり、これは現在の「琉球新報」です。創刊は沖縄戦終結直後の1945年7月25日。この新聞は事実上の「米軍広報宣伝紙」とも言えるものでした。 この新聞の記者であったある邦人は、この新聞をつくることになった際に「米国の宣伝をする新聞をつくるとスパイ扱いされるから御免だとは思ったが、断ると銃殺されるかもわからず、否応なかった」(「沖縄の言論」辻村明、大田昌秀)と話しています。 また、琉球新報と並び、沖縄を代表する新聞である「沖縄タイムス」(1948年7月1日創刊)の創刊号では、当時の社長である高嶺朝光氏が次のように語っています。 「吾々はアメリカの暖かい援助のもとに生活している、この現実を正しく認識することはとりも直さずアメリカの軍政に対する誠実なる協力であり、また、これが沖縄を復興する道である」 さらに同紙創刊者の一人は、 「沖縄タイムスの特色は創立スタッフが戦前にも新聞記者を経験していたことです。戦時中、大衆を戦争に駆り立てたという、(中略)この大きな罪を背負いつつ『立ち直って、反戦の立場からもう一度、新聞をつくってみよう』との意気込みがあった。それは一方で、新聞人としての贖罪の意味ともなり『新の平和を目指す新聞を作る』という心があったんです」(沖縄タイムス1993年7月1日) と語っています。 これらの発言から両紙の原点が「戦争への贖罪」と「親米反日」というアメリカの宣伝工作にあったことがわかります。 ◆アメリカによる沖縄復興と左翼思想 戦後、米軍統治によって沖縄ではインフラ整備、医療技術の飛躍的向上が果たされました。また米軍基地周辺では経済が活性化し、戦後急激な復興と発展を遂げています。 このように戦後の沖縄復興に対してアメリカが果たした役割は非常に大きいということができます。戦後、日米の関係は変化し、現在ではアジア諸国の安全保障にとっても両国の友好関係は非常に重要なものになっています。 しかし、1972年の沖縄返還から40年以上たった現在、米軍統治下でつくられた「琉球新報」と「沖縄タイムス」は、ある意味において創刊時と変わらず反日的主張を行い続けているとともに、逆に「反米」も強く打ち出しています。 これは、創刊当時の反日思想を土台としながら、そこに基地問題や補償金などの戦後新たに発生した切り口から左翼思想が入り込んでしまった結果であると考えられます。 知事選を控え様々な情報が飛び交い、各紙がそれぞれの主張を展開しています。「沖縄独立」などといった言葉もよく目にするようになっていますが、私たちはこのような「沖縄2大紙」の歴史を知り、そのスタンスを把握したうえで、正しく情報を読み取る必要があるのです。 日本で初めて演奏された『交響曲第9番』 2014.10.31 文/幸福実現党熊本県本部副代表 木下 順子 ◆映画「バルトの楽園」 アンジェリーナ・ジョリーが、日本軍に虐待された捕虜を描いた反日映画「アンブロークン」を制作しましたが、みなさんは、映画「バルトの楽園」をご存知でしょうか? この映画は、2006年公開の日本映画。徳島県鳴門市の板東俘虜収容所を舞台とした、日本で初めて『交響曲第九番歓喜の歌』が演奏された真実の物語です。 1914年、第一次世界大戦で日本軍は3万人の大軍を送り込み、ドイツの極東根拠地、中国・青島(チンタオ)を攻略しました。 この戦いに敗れたドイツ兵4700人は、捕虜として日本に送還され日本各地に設けられた俘虜収容所に振り分けられました。捕虜達は、1919年(大正8年)ヴェルサイユ条約締結まで長期に渉り収容されました。 1917年、全国12カ所にあった収容所が6カ所に統合されました。環境が劣悪な収容所で過酷な2年を過ごした捕虜達は、「この先どんな地獄が待ち受けているのだろう」と不安を抱えながら渦潮の海を越え、徳島県鳴門市にある板東俘虜収容所に移送されます。 ◆捕虜たちに寛容な待遇をした松江豊寿大佐 しかし、この板東俘虜収容所の所長、松江豊寿大佐は、捕虜に対し人道的な扱いを心がけ、捕虜達全員に次のように訓示しました。 「諸君は祖国を遠く離れた孤立無援の青島で、最後まで勇敢に戦った。しかし、利あらず日本軍に降伏した、私は諸君の立場に同情を禁じえない。諸君は自らの名誉を汚すことなく、秩序ある行動をとってもらいたい。」 捕虜たちに寛容な待遇をし、地元民と捕虜との融和を図ろうとする松江所長の指導の下、硬く心を閉ざしていた捕虜達は、少しずつ心を開くようになるのです。 ドイツパンを焼き、新聞を発行し楽器を演奏すること、そしてビールを飲むことさえ許された収容所生活で、捕虜達は生きる喜びを見出していきました。まさに「楽園」だったのです。 松江大佐は、地元の青年たちが西洋音楽を習いたいという願いを聞き、エンゲル・オーケストラのリーダー、パウル・エンゲル(音楽教室で日本人を指導してオーケストラを作ったのはエンゲルのみ)を紹介し音楽教室を開くことになりました。 やがて解放され、自国に戻る事を許されたドイツ人達は、松江所長や地元民に対する感謝の思いを込めて、日本で初めてとなる『交響曲第九番 歓喜の歌』を演奏することになりました。 ムスターラーゲル(模範収容所)が存在した奇跡の2年10カ月は、なぜ生まれたのでしょうか。 それは、松江豊寿大佐の生い立ちにある、松江豊寿は旧会津藩士、松江久平の子として1872(明治5)年に現在の会津若松市で生まれました。 ◆松江豊寿大佐を育んだ会津の教育 明治維新直後の戊辰戦争で敗者となり廃藩、その後、藩は復活しましたが、下北半島の未開の地といえるような荒れた土地で、飢えと戦いながら生き延びました。このような苦労が、敗者に対するいたわりの心が生まれる基盤となったと思われます。 また、会津藩は朱子学を藩学として学問を奨励し、6歳になると「什(じゅう)」と呼ばれるグループに入り「什の掟」を訓示します。 日常の生活習慣などを始めとする教育から始まり、10歳になると「日新館」に入学し論語などの中国の古典を教科書として学んだり、「日新館の心得」をしっかり学習することで藩士の子弟としての心構えや誇りを身につけていました。 人間は教育によって徳ある人物へと育成することができ、さらに多くの人々を幸福にすることができるということを深く感じます。 ◆四方の海みな兄弟なり 最後、松江大佐の「命令遵守に感謝する」という言葉に対し、日本を去ることになったドイツ人で日本語教師を務めたクルート・マイスナーは、このように答えました。 「あなたが示された寛容と博愛と仁慈の精神を私たちは決して忘れません。そしてもし私たちより更に不幸な人々に会えば、あなたに示された精神で挑むことでしょう。『四方の海みな兄弟なり』という言葉を、私たちはあなたとともに思い出すでしょう」 「四方の海」は、明治天皇の御製(ぎょせい)です。 (※御製とは、天皇陛下の詩歌や絵画などの作品のことで、特に和歌を指して使われます) 四方の海 みな同朋(はらから)と 思ふ世に など波風の 立ちさわぐらむ 「四方の海はみな同胞(兄弟)と思うこの世になぜ波風が立ち、騒ぎが起こるのであろう。」欧米列強がアジアを侵略し、ロシアが日本を虎視眈々と狙っている頃に明治天皇はこのようにお詠みになられたのです。 来年は戦後70年を迎えます。神国日本を守るために命をかけて戦われた先人たちの思いに報いるため、そして未来の日本を受け継ぐまだ見ぬ青年たちのために、これからも日本の誇りを取り戻す活動に力を尽くしていく所存です。 日本中の地方議会から自虐史観の払拭を行い、国を動かそう! 2014.10.28 文/兵庫県本部副代表 みなと 侑子 ◆全国の市町村議会において採択されている「慰安婦意見書」の存在 河野談話が日韓の合作であったこと、また吉田清治証言を基にした記事を誤報と認めた朝日新聞の謝罪をきっかけに、歴史認識の見直しが始まっていることはご存知のとおりです。 実は2008年以降、河野談話を受けて「日本軍『慰安婦』問題に対して、政府の誠実な対応を求める意見書」を決議している地方議会が、全国の県市区町村に42か所存在します。 意見書の内容は、いわゆる慰安婦に対して日本政府が謝罪と賠償を行うことを求めているものです。意見書を決議している県市区町村の一覧は以下の通りです。 ・北海道(4市)札幌市、士別市、小樽市、函館市 ・岩手県(1市)一関市 ・埼玉県(1市1町)ふじみ野市、南埼玉郡宮代町 ・千葉県(2市)我孫子市、船橋市 ・東京都(6市)国分寺市、国立市、三鷹市、小金井市、清瀬市、西東京市 ・京都府(1府8市)京都府、京田辺市、長岡京市、日向市、八幡市、木津川市、宇治市、城陽市、宮津市 ・奈良県(1市1町)生駒市、広陵町 ・大阪府(6市)大阪市、高槻市、堺市、吹田市、泉南市、箕面市 ・兵庫県(1市)宝塚市 ・島根県(1県)島根県 ・鳥取県(1市)東伯群北栄市 ・岡山県(1市)岡山市 ・福岡県(2市)福岡市、田川市 ・沖縄県(2市3村)南城市、豊見城市、今帰仁村、多良間村、読谷村 意見書を採択している自治体は、一般的に左翼勢力が強い地域であります。この事実を知っている住民は少なく、議会における反日的な議員を中心に提案・決議され、現在に至っています。 このような意見書を採択している県市区町村の住民がまず事実を知り、それがどれほど自分たちを害しているかということを訴えていくことが必要です。 ◆兵庫県宝塚市において「慰安婦意見書の無効化」が可決! 兵庫県宝塚市議会は、2008年3月に「慰安婦意見書」を可決し、全国の先駆けとなった地域です。 2013年にこの事実を知った著者は何とかしたいと考え、市議会議員にも相談しました。しかし、河野談話が有効である今、自分の力だけではどうすることもできないとの返答でしたので、幸福実現党の「河野談話の白紙撤回を求める署名」活動や、地域の保守系グループとの交流などを通じて、草の根活動を地域の方々と一緒に行ってまいりました。 その後、全国で13万筆を集めた署名やデモ活動などにより、世論が変わってきました。 これらに後押しされるかたちで2014年10月8日 宝塚市議会の本会議 決議第15号において、 (1)吉田証言の虚偽と朝日新聞の謝罪 (2)日本軍が組織的に強制連行した証拠はない これを根拠にして、「宝塚市議会が平成20年3月26日付けで政府に提出した意見書が決定的な根拠を失ったことを確認する」決議案(http://www.city.takarazuka.hyogo.jp/gikai/0302-2014-04-ketugi15.pdf)が賛成多数で可決しました。 全国初で「慰安婦意見書」を決議した宝塚市が、全国初で「意見書の無効化」決議したのです。この流れを全国に広め、残りの41自治体の議会においても、同じように「意見書の無効化」を進めていきたいと思います。 ◆一人ひとりの声を地方議会へ届け、国を動かそう! 今回の宝塚市の決議案は、発議者が市議会議員3名によるものでした。しかし、市民一人からでも国や地方自治体の機関に意見や希望を述べることができます。国民に認められた権利である、陳情活動です。紹介議員がついてくれた場合は、請願となります。 宝塚市の例を見る限り、2008年の「慰安婦意見書」に賛成したにもかかわらず、2014年の「意見書の無効化」にも賛成している議員が、賛成の14名中7名も存在しています。 世論に合わせて意見を変えている議員が半数以上存在しているということは、市民の声に敏感にならざるを得ません。積極的に知り合いの地方議員に働きかけていきましょう。 陳情・請願活動においてはマイナスを0に戻すだけでなく、プラスの活動をすることも可能です。すでに鹿児島県議会、北九州市議会、大阪市議会などが、河野談話の見直しや国会での検証、新談話の発表を要望する意見書を採択しました。 河野洋平氏の国会招致や新しい談話の発表、捏造歴史の見直しと左翼教科書の撤廃など、行うべきことは山積みです。 一人ひとりの声は小さくとも、その声を集めると大きな運動になります。日本中の地方議会からまずは自虐史観の払拭を行ってまいりましょう。 「南京大虐殺」の虚構――「崇善堂」の埋葬記録の検証(2) 2014.10.25 文/幸福実現党政務調査会 佐々木勝浩 ◆不可解な「崇善堂」の遺体埋葬記録 前回も説明したように東京裁判は、「偽証罪」(裁判でウソを証言した罪)が問われず、始めから日本を貶める作意のある裁判でした。ですから証言や出された資料が真実かどうかの検証もされていません。 日本軍が南京に入城したのは昭和12年12月ですが、昭和21年から始まった「東京裁判」のために作成されたのが「崇善堂」(すうぜんどう)の遺体埋葬記録です。これは当時の記録ではなく9年経ってから作成された記録です。 「崇善堂」の埋葬記録は、別の慈善団体である「紅卍会」(こうまんじかい)が遺体埋葬を終えてから、数か月後に同じ場所で遺体埋葬作業が行われ、つじつまの合わない不可解な点があることは、前回のニュースファイルで指摘したとおりです。 では、この「崇善堂」とはどのような団体だったのでしょうか? ◆「崇善堂」は埋葬活動をしていない? 昭和12年末~昭和13年始めに埋葬活動を行っていた「紅卍会」の埋葬活動は、当時も目撃されています。私も当時の記録フィルムで「紅卍会」の活動の映像を見たことがあります。 「紅卍会」は4万余体を埋葬しているので、その倍以上11万余体の埋葬活動をした「崇善堂」が目撃されていてもおかしくないのですが、当時南京にいた日本兵の間でも「崇善堂」という存在は知られていませんでした。 また国際委員会の記録の中にも、ティンパーリーのように国民党の中央宣伝部の依頼で、世界に日本の虐殺を告発するために出版した「戦争とは何か -中国における日本軍の暴虐」にも「崇善堂」の名はどこにも出てきていません。 もし「崇善堂」が、埋葬活動をしていないとしたら、「南京大虐殺」の根拠になっている埋葬数11万余体が架空の数字だったということになります。当時中国の文献で検証できれば、中国が主張する日本の「南京大虐殺」は完全に崩壊します。 ◆当時の中国文献から「崇善堂」を検証 1945年11月、中国側は東京裁判に提出する資料を作成するため「南京地方法院検察処敵人罪行調査委員会」を設けました。 同委員会は、官民合同の14の政府機関や民間団体を網羅し「紅卍会」まで加わっていますが、どうしたわけかここにも「崇善堂」は名を連ねていません。「紅卍会」の倍以上の11万余体もの遺体埋葬をしているにも関わらず、当時の中国側の文献にも「崇善堂」の名前さえないのです。 その実態が明らかになったのは、昭和60年8月10日付け「産経新聞」のスクープ記事からです。国立国会図書館にあった「中華民国27年度版(昭和13年)南京市政概況」などの当時の南京市の史料で、ここには当時の慈善団体とその活動が記されていました。 ちなみに「紅卍会」の活動は、「収容」「埋葬」という活動が記されています。ところが「崇善堂」の活動欄には、「乳呑児を育てる」の文字はありますが「埋葬」は記されていません。 さらに決定的なことは、日本軍の南京入城後に中国で編集された「南京市政概況」には、「紅卍会」は、「工作進行」(活動が続いている)と記されていますが、「崇善堂」は、「工作進行範囲狭小」(活動は続いているが規模が縮小)しています。同文献の遺体埋葬の団体の中にも「紅卍会」はあっても「崇善堂」の名前はないのです。 また「南京商工会議所編」の「南京」には、「崇善堂」が本格的に活動したのは、南京戦後の8か月も経った「昭和13年9月から」と記されています。 つまり東京裁判に報告された「崇善堂」の埋葬活動が、「昭和13年4月9日から5月1日まで」(『日中戦争史』)であることが明らかになっていますが「崇善堂」は、その時期、南京では活動していなかったと中国の文献自体が記しているのです。 「崇善堂」の人員構成がはじめて出てくるのは、戦後しばらく経った中国の文献である『証言・南京大虐殺』(中国/南京市文史資料研究会・1984年「青木書店」)です。同書によると「崇善堂」は、主任1人、隊員1人、人夫10人、計12人で構成されています。 これが真実であるとしたら「崇善堂」は、 1か月弱の間に12人で11万体、一日で多い日は数千体を埋葬したということになります。ショベルカーもブルトーザーもない時代に手作業でやったというのは常識的に考えてもあり得ないことです。 中国側に下記のように質問してみたいものです。 「当時、南京で活動していなかった『崇善堂』が、11万余体の遺体をどうやって埋葬したのですか?また『紅卍会』が埋葬を完了した同じ場所から数か月経ってどうして遺体がでてきたのですか?その時の状況を説明してください。また『崇善堂』は12人で、1日で数千体を埋葬したことになっていますが、どんな方法で埋葬したのですか?」 以上、二回にわたって「崇善堂」の埋葬記録を検証しましたが、いかにずさんなものだったことが分かります。ですから日本が検証もせず、中国から言われるままに「南京大虐殺」を謝罪し、そのたびに経済支援を要求されるとしたら、まったく愚かなことであると言わざるを終えません。 しかし、これまで日本の政治家は中国に対して謝罪を繰り返してきたのです。 【参考図書】 「南京事件の総括」田中正明著/小学館文庫 「南京の実相―国際連盟は『南京2万人虐殺』すら認めなかった」日本の前途と歴史教育を考える議員の会(監修)/日新報道 戦後70年の2015年、日本の誇りを取り戻す「新談話」を! 2014.10.17 文/幸福実現党山口県本部 政務調査部長 石橋昇 ◆慰安婦問題に適正な対応を求める意見書が続々可決 10月7日の産経新聞電子版によると、10月3日、鹿児島県議会は、慰安婦募集の強制性を認めた「河野談話」の見直しや、高校教科書の慰安婦に関する不適正な記述の是正を政府に求める意見書を賛成多数で可決。北九州、大阪両市議会も同様の意見書を可決したと報じています。 このほかにも、埼玉県議会、山口県議会、高知県議会、宝塚市議会、町田市議会、常総市議会、千葉市議会(以上、合計10議会)が、河野談話の見直しを求めたり、慰安婦問題について事実関係を国会で検証することなど、慰安婦問題に関して国に対し適切な対応を求める旨の意見書あるいは陳情を可決しております。 特に、宝塚市議会においては、いわゆる従軍慰安婦に関して、被害者とされた女性の尊厳回復に努めることなど国に求める意見書を6年前に可決しましたが、今回の議決は、自ら可決した6年前の決議書の決定的な根拠を失ったとし、国に対し慰安婦問題の真相究明と正しい理解を外国に促す努力を求める内容であり(参考:10月8日読売新聞電子版)、その意義は大きいと思われます。 今、このような議決が矢継ぎ早に行われている理由として、朝日新聞社が慰安婦に関する記事の一部誤りを認めて謝罪したことや、日本政府が河野談話作成経緯の再調査結果を公表したことなどの影響が大きいと思われます。この一年間で、慰安婦問題に関する状況は大きく変化しました。 来年は戦後70周年にあたる節目の年であり、新しい談話が発表されるという話もあります。国に対して慰安婦問題に適正な対応を求める意見書が数多くの議会で可決されることは、正しい歴史認識を啓蒙するための大きな後押しとなります。 今後もさらに多くの議会で同様な旨の決議書が可決されることが望まれます。 ◆南京事件に対する正しい歴史認識も不可欠 慰安婦問題のほかに、わが国の名誉を貶めているもうひとつの問題が、南京事件(いわゆる南京大虐殺)です。中国政府は、南京大虐殺や従軍慰安婦に関する資料をユネスコの記憶遺産に登録申請しました。その申請の可否は、来年の夏頃に決定するとみられています。 南京事件の被害者数や真相については諸説ありますが、HRPニュースファイルでは、いわゆる南京大虐殺について多くの疑義があることを述べてきました。 中国が主張する南京大虐殺とは、昭和12年の南京戦において日本軍が30万人を虐殺したというものですが、そもそも当時の南京の人口は20万人程度であり日本軍が南京に入城した際、住民は「安全区」に避難しており、30万人の虐殺などできるはずがありません。 また近年の研究で大虐殺の証拠とされる当時の写真が捏造であったことも明らかになっております。 また、慰安婦の強制連行についても日本政府の調査では、これを裏付ける資料は見つかっていません。 幸福実現党は、『中国による「南京大虐殺」「従軍慰安婦」のユネスコ記憶遺産への申請に抗議し 日本政府に万全の措置を求める署名』を行っております。 ※最終締切:12月4日、署名の詳細はこちら→ http://info.hr-party.jp/2014/3159/ 戦後70周年の来年に発表されるかもしれない新談話には、慰安婦問題だけでなく、南京事件に対する正しい歴史認識も織り込まれることが望ましく、本署名が必ずしや大きな後押しになると信じております。 どうか、多くの皆様のご協力をお願いいたします。 日本はアジアの希望の光であり続けよ 2014.10.15 文/幸福実現党徳島県本部副代表 小松由佳 ◆民主化を支持する国際世論の必要性 香港で続く民主派デモに対し、20日の中央委員会総会を前に事態を収束させたいとの中国政府の思惑からか、一部で警察によるバリケードの撤去が始まりました。 政府は同時に、デモへの支持を表明した知識人らを14日までに50人以上拘束し、約10人の著作を発禁処分にするなど、言論統制を強めています。 中国の他地域でも民衆弾圧は続いており、ウイグル自治区で13日、7月にカシュガル地区で発生した大規模暴動について、首謀者ら12人に死刑が言い渡されています。 習近平氏は今のところ、香港における天安門事件の二の舞は避けていますが、こうした自由と民主主義を求める人々のエネルギーを解放することこそ、経済繁栄はじめ国家発展の原動力となると気づくべきでしょう。 こうした中、幸福の科学グループの大川隆法総裁は、10月9日、「国際政治を見る眼」と題した説法を行い(http://info.happy-science.jp/2014/11784/)、香港の動きについて、中国の民主化に繋がる可能性と、それをバックアップする国際世論形成の必要性を述べました。 そして、日本は、先の大戦についての誤った認識から自由になり、アジアに一定の責任を持ち、積極的に言論を発すべきであり、安倍政権の下、日本が国際正義の一端を担えるよう国体を変えようとしていることは、香港や台湾にとっても心強いことだとしました。 また、韓国では、朴政権による産経新聞前ソウル支局長の出国禁止が続いていますが、これも民主主義に反する行為として国内外から批判を受けており、慰安婦問題への固執も目に余る朴大統領に対し、大川総裁も同説法で「退場勧告したい」とまで述べています。 ◆日本がアジアを救ったとする黄文雄氏 こうした情勢を受け、徳島市内でも10月12日、台湾生まれの評論家である黄文雄氏が、「近代日本がつくった世界」と題する講演を行い、正しい歴史認識について語りました。 黄氏は、日本は古来、自然摂理や社会システムに恵まれ、強盗・疫病・内乱などの少ない「超安定社会」であり、特に明治以降、日本からソフトとしての「文明開化」とハードとしての「殖産興業」の波が広がったことが、21世紀のアジアを創ったと述べました。 戦前のアジアで日本だけが近代化に成功した理由として、黄氏は「日本だけが強盗社会でなかった」ことを強調しました。他のアジア諸国が匪賊や山賊に溢れていたのに対し、日本は「魏志倭人伝」にすら「盗みをしない国」として特記されていたといいます。 また、江戸の都が「世界一衛生状態が良い」と言われていたのに対し、日本以外のアジアは全体的に衛生状態が悪く、世界規模の伝染病には歴史上、中国発のものが多く、日本人が入ってくる前の台湾も、平均寿命が30歳程度であったことを指摘しました。 韓国併合についても、反対したのはヤンパンと呼ばれる一部の特権階級であり、一般庶民は大賛成だったとしました。 なぜなら、18世紀以降、韓国は赤字に苦しむ破綻国家であり、19世紀に入っても物々交換による原始的な経済で、貨幣も流通しておらず、日本が40年間近く財政支援を行ったことで、20世紀まで生き残れたような状態だったからだといいます。 ◆人類史にとって貴重な日本文明 また、黄氏は、日本特有の「特攻隊」の精神を評価し、それに通ずる「武士道」の重要性も指摘しました。 黄氏は、「道徳は宗教の一部に過ぎない」とした上で、日本においては、様々な宗教が共存してきたと同時に、宗教に代わるものとしての「武士道」があったとし、「日本の文化そのものが道徳を超えている」と述べました。 これに対し、中国の「儒教道徳」には、その中心的な概念である「仁」について明確に定義できないなど不十分な部分があり、「中国の人々は、内的な受け皿が無いのに外から無理やりに道徳を強制されたため、逆に良心を奪われたのではないか」と指摘しました。 そして、「場」や「結び」といった独特の価値観の上に、様々なものを忍耐して受け入れ、徐々に新しいものを創りだす「オープンシステム」として、長年に渡って続いてきた日本文明は、人類史にとって貴重であり、守らなくてはならないと、黄氏は熱く語りました。 こうしたアジアの同胞の言葉には、非常に勇気づけられるものがあります。迷走し自滅しようとしている中国や韓国をも救うべく、日本はアジアの希望の光として、正しい価値観を体現し続けなくてはならないのです。 「南京大虐殺」の虚構――「崇善堂」の埋葬記録の検証(1) 2014.10.14 文/幸福実現党政務調査会 佐々木勝浩 ◆「崇善堂」の遺体埋葬記録 前回、連合国が日本を裁いた東京裁判において検察側の証拠資料に、南京市が出した「紅卍会」(こうまんじかい)の4万3071体の遺体埋葬記録を検証しました。 今回は、「崇善堂」(すうぜんどう)が出した11万2266体の遺体埋葬記録を検証します。 「崇善堂」とは、清の時代に設立され子供の養育などをしていた慈善団体です。「紅卍会」が出してきた埋葬記録もそうですが、2つの埋葬記録は南京に日本軍が入城(1937年)してから9年後の1946年につくられたものです。 偽証罪(嘘を証言した罪)が問われない東京裁判において、9年を経て裁判のためにつくられた埋葬記録が、はたして信憑性に絶え得るものでしょうか。 「紅卍会」の埋葬記録は、戦後の東京裁判になって突然脚光をあびるようになりました。以後、日本軍による「大虐殺」を主張する論者によって「崇善堂」の11万余体の埋葬記録は「南京大虐殺」を証明するに欠かすことのできない重要な武器となったのです。 こういう筆者も1980年代当時、左派の活動家と「南京大虐殺の論議」をした際に「10万体もの埋葬記録が残っているのを知らないのか!」と一喝され、当時は論破できる資料や論拠がなく返答に困ったことがあります。 逆に言えば、この「崇善堂」の埋葬記録の論拠が崩壊すれば、いわゆる「南京大虐殺」自体も崩壊します。 ◆不自然な「崇善堂」の埋葬記録 『日中戦争史』の記録によれば、「崇善堂」は、4月9日から5月1日までの25日間で11万2266体の遺体を埋葬したことになっています。ブルトーザーもトラックもない当時、1日あたり4490体を運び埋葬したことになります。 また、どの埋葬場所にも女性と子供が平均して3パーセントずつ配分されており、あまりにも作為的です。ちなみに「紅卍会」の埋葬記録は、女子と子供はほとんど皆無です。 さらに不可解なことは、日本軍が支援して「紅卍会」が埋葬を済ませた中華門、雨華台、水西門外の区域で、埋葬した記録があることです。これが本当の記録であれば「紅卍会」がきれいに埋葬したあと同じ区域から、しかも数ケ月も経って遺体が大量に出てきたということになります。 もちろん東京裁判で弁護側は、この埋葬記録は、南京戦から9年後につくられたもので、明らかに作為的な記録であると反論しました。しかし一切検証もされず東京裁判の判決は以下のようなものです。 「日本軍が占領してから…虐殺された一般人と捕虜の総数は20万人以上であった。…これらの見積もりが誇張でないことは、埋葬隊とその団体が埋葬した15万5000に及んだ事実によって証明されている。」 こうして、南京で大虐殺があったことは、埋葬数(「紅卍会」と「崇善堂」の埋葬記録を合わせると15万余体)が決定的な決め手になったのです。 ◆現在の教科書の記述 現在の日本の歴史教科書では、いまでも下記のように教えています。 「日本軍は南京を占領しました。その過程で女性や子どもを含む中国人を大量に殺害しました。」(中学校「東京書籍」) 「約20万人ともいわれる軍人・捕虜・非戦闘員を殺害するとともに、掠奪・放火・性暴力を多数ひきおこした。」(高校「日本書籍」) このように東京裁判の判決に基づいて、戦後69年経った今でも中学校、高校で教えられているのです。 では「崇善堂」とはどのような団体だったのかを、次回はさらに詳細に検証します。これを知れば、中国や左派が主張するいわゆる「南京大虐殺」の根拠は完全に崩壊します。 パラオ共和国に今でも残る「大和魂」 2014.10.12 文/政務調査会チーフ 小鮒将人 ◆パラオの国旗は「日章旗」によく似ている 「パラオ共和国」は、世界地図で見ると、フィリピンのミンダナオ島から600㎞程度東に位置する小さな島々からなる国家です。首都のマルキョクは東経134度に位置し、日本でいうと姫路市付近に当たり、全く時差がありません。 現在、漁業や観光を主たる産業としており日本からも、多くの観光客が訪れていますが、パラオの国旗は、知る人ぞ知る、青地に黄色の丸の「月章旗」と言われる美しいデザインをしています。 パラオ政府からは、はっきりと説明したことはありませんが、これは明らかに、日章旗をモデルにしたものとして知られており、いかにパラオが親日であったかを示しています。 ◆パラオでも日本の統治が大成功 パラオは、元々スペイン、そしてその後ドイツの植民地となりましたが、近隣のフィリピン、インドネシア同様に、教育を与えず、インフラ整備も行わない、ひたすら搾取と略奪のひどい植民地政策が行われてきました。 欧米による植民地支配は、パラオの人達の人権を踏みにじるような扱いを続けていて、元々6万人いた人口は、6千人にまで減少したそうです。 第一次大戦後に、ドイツが敗れたために、国際連盟の決議によって日本の委託統治地域となりました。日本によるパラオ統治は、台湾や朝鮮などと同様に、日本人とほぼ同等の教育を行い、日本本土と同じようなインフラ整備を行い、人種差別もなく、パラオの人達にとっては国家の発展とは何かを明確に体験することができ、夢のような日々でありました。 ◆大東亜戦争、ペリリュー島の戦い 1941年、大東亜戦争がはじまり、パラオ諸島の一つであるペリリュー島には大きな飛行場が建設され、軍事拠点となりました。 1944年9月、米軍は、この拠点を攻略するためにまず、多くの艦船からの艦砲射撃と高性能焼夷弾の集中砲火で、島内のジャングルを焼き払いました。その後、米軍第1海兵師団17,500人、第81歩兵師団11,000人の大軍で上陸を開始しました。 当時の日本軍の守備隊はおよそ10,000人で、しかも、海上からの支援はまったく期待できない孤立した戦いになりました。上陸する米軍第1海兵師団のウィリアム・リュパータス海兵少将は、作戦開始にあたり「こんな小さい島の戦闘は2、3日で片付く」と豪語しています。 ◆米軍を徹底的に苦しめた「敵軍戦法早わかり」 ところが、米軍は中川大佐を指揮官とする日本軍の反撃にあって、上陸して後、全く動きが取れないまま、第1波の上陸部隊が退却する事になりました。 実は、日本軍参謀本部では、米軍の戦いを詳細に研究した堀栄三氏によって、「敵軍戦法早わかり」という小冊子を作成し、それに基づいて具体的な戦術を行う事を指示したのです。 その中で述べられている3つの柱を簡単に述べると 1、 海からの艦砲射撃が効果を発揮しない、島の中央部に陣地をつくる。 2、 米軍への水際攻撃を避ける。 3、 基地の防護壁は、米戦艦の主砲に耐えるコンクリート厚2.5メートルとする。 というようなもので、一言でいうと、持久戦、ゲリラ戦の勧めというものでした。 これまでの日本軍の戦いは、「バンザイ突撃」に象徴されるような一方的な突撃を行うものが中心でしたが、「敵軍戦法は早わかり」による考えは、180度の転換を求める革命的なものでした。 ペリリュー島の戦いは、この考えに基づいて行われた初めての戦いで、米軍は、史上最悪の損害を出すこととなり、精神的異常をきたす若者たちが続出し、それまでに経験したことのない危機的な事態に陥りました。この詳細は、今年の8月、NHK特集で「ペリリュー島 狂気の戦闘」のタイトルで放送されています。 この後、終戦に至るまで、海軍や、空の戦いでは米軍の独壇場になりますが、陸の戦いでは、日本軍による必死の戦いもあり、この戦法は、後に硫黄島、沖縄の戦い、さらには、ベトナム戦争などにも受け継がれ、米軍に莫大な損害を与える事になりました。 当初、2,3日で決着すると見られていたペリリュー島の戦いは、このようにして、日本軍の徹底した抵抗のために、2か月余りの時間を要することになりました。 残念ながら、中川大佐をはじめとする10,000人の守備隊は、最終的にほぼ全滅、捕虜202人、生存34人という状況となりましたが、彼らがこの戦いで発揮し、米軍を徹底的に恐れさせた「大和魂」は、今でも日本人の誇りとなっているのみならず、パラオの人達にも大きな印象を残しました。 また、米太平洋艦隊のニミッツ司令長官は、以下の詩文を残し、日本軍の戦いに大きな敬意を表したといわれています。 「諸国から訪れる旅人たちよ この島を守るために日本国人がいかに勇敢な愛国心をもって戦い そして玉砕したかを伝えられよ」 ◆国の誇りを取り戻し、親日国の期待に応えよう 戦後、パラオ諸島は米国の信託統治の地域となりました。ここで、米国はかつて欧米が行った収奪型の経営を行うとともに、徹底的な反日教育を行いました。 しかし、パラオの人達にとって、日本統治下の夢のような日々を忘れるはずもなく、しかも、徹底的に米軍を苦しめた勇敢な戦いを見て、親日の立場を決して変えることがありませんでした。 やがて、1993年の住民投票によって、実質的な米国の信託統治から独立することになりました。その時の初代大統領は、「クニオ・ナカムラ」氏と言い、その名前が示すように、父親が三重県の出身の日本人であります。 そして、冒頭にお伝えしたとおり、国旗を制定する際にも、日本の「日章旗」にデザインが非常に似ている「月章旗」を採用したと言われています。 これ以外に、パラオには多くの日本の文化が今でもしっかりと根付いており、今回、紹介した以外にも、数多くの心温まるエピソードがあります。 現在の日本を取り巻く国際情勢は、中韓などから「反日」と言われる事が当たり前に感じるようになっていますが、実際には、パラオをはじめ、親日の姿勢を明らかにしつつ、常に日本の動きを注視している多くの国家があることを私たちは忘れてはいけません。 そうした意味で、私たち幸福実現党が進めている「日本の誇りを取り戻す」活動は、国の繁栄の為に、大変重要な活動です。 ぜひ、一人もでも多くの国民の皆さんにご理解を頂きたいと思います。 「南京大虐殺」の虚構――「紅卍会」の埋葬記録の検証 2014.10.04 文/幸福実現党政務調査会 佐々木勝浩 ◆15万余の埋葬記録 終戦後、連合国が日本を裁いた東京裁判において検察側の証拠資料に、南京市が出した「紅卍会」(こうまんじかい)と「崇善堂」(すうぜんどう)の埋葬記録があります。 「紅卍会」とは、道教の流れを汲む慈善団体で「赤十字」のような活動を行っていました。「崇善堂」とは、清の時代に設立され子供の養育などをしていた慈善団体です。 東京裁判で報告された証拠資料は、「紅卍会」が埋葬した遺体が4万3071体、「崇善堂」が埋葬した遺体が11万2266体で、合計すると15万5337体になります。 「これらの遺体すべては日本軍が虐殺したものである」――と、東京裁判はそっくりそのままその数字を承認しました。これが、いわゆる「南京大虐殺」があったという一つの根拠にもなっています。 ◆「紅卍会」の埋葬記録の検証 まず「紅卍会」の埋葬記録を検証してみましょう。 「紅卍会」は、昭和12年12月、日本軍と国民党軍の戦いが終わると、さっそく埋葬作業に従事しました。実はこのとき埋葬した遺体は、南京の戦いで亡くなった戦死体だけではありませんでした。 南京戦に先立つ上海事変で負傷した国民党軍の将兵は、列車で南京に送られ、そのまま放置されたり、病院に収容されても国民党軍が南京から逃げ出したので、置き去りにされた遺体でした。 他にも南京では難民が毎年15万人ほど発生し行き倒れもありました。そうした遺体と戦死者の遺体を「紅卍会」は埋葬したのです。 こうした事実は「中華民国27年度、南京市政概況」「南京市政府行政統計報告」などの昭和14年に中国で発刊された刊行物に記述されています。 つまり、日本軍による、いわゆる「南京大虐殺」は、中国の当時の文献によって崩れています。 ◆埋葬数の水増し 南京の治安が安定して翌13年1月になると南京市民による自治委員会が結成されました。そして同委員会が資金を出し「紅卍会」の埋葬作業は続けられました。 翌年の昭和13年2月~3月には日本軍が主導して南京城の内側と外側で遺体の埋葬作業を行いました。この時、「紅卍会」を通じて埋葬作業を指導したのが、日本の南京特務機関の丸山進氏です。 同特務機関は、「紅卍会」に埋葬の資金を提供しているのですが、その際に埋葬数を水増し請求してきても、差額を「紅卍会」への援助金としました。 東京裁判に提出された「紅卍会」の埋葬記録は、前述のように4万3071体で、うち南京城内で1793体、城外では4万1278体を埋葬したことになっています。 丸山進氏によれば、水増し数は1万4000~1万8000、多ければ2万3000体と考えられ、これからすると「紅卍会」の実際の埋葬数は2万~3万くらいと推定されます。 また「紅卍会」の埋葬記録で、南京城内の安全区にあった遺体は175体です。これも東京裁判で宣教師が証言した虐殺数1万2000体とは、桁が違い過ぎます。これを見ても南京大虐殺の信憑性は崩れています。 ◆安全区の175体の遺体 日本軍が上海から南京に向かっていることを知った裕福な市民は、早々と日本軍が来る前に南京市の北側に接する揚子江から船で避難しました。 昭和12年12月1日、アメリカの宣教師が中心に組織した国際委員会が安全区をつくったのですが、その時に南京城内の南方にいた船賃も持ってない人たちがたくさん安全区に入って来ました。 それで治安が悪くなったこともあり、国民党軍が12月7日に100人程を射殺しました。その遺体が安全区の中にあったのです。 国際委員会は、安全区をつくるときに、日本軍と国民党軍に対して、安全区を攻撃しないよう約束を取り付けていました。日本軍はそれを守りました。 ただ12月11日、南京城内で戦闘が始まる前に日本軍は、安全区のそばにあった中国軍の高射砲の陣地を攻撃しました。その際、逸れ弾があり、安全区の辺りに落ち10数人が犠牲になったという記録があります。 このことから安全区の中にあった遺体は、国民党軍が射殺した100人程度と、それと日本軍が攻撃した際の犠牲者10数体を合わせると「紅卍会埋葬記録」の175体と符合します。 以上、「紅卍会埋葬記録」の4万3071体は、戦死体の他、国民党軍が置き去りにした将兵の遺体、行き倒れ遺体、戦闘で巻き添えにあった遺体が含まれ、さらに埋葬数は水増しされたもので、ここからも日本軍の大虐殺などは最初からなかったことがわかります。 次回は、もう一つの「崇善堂」の埋葬記録を検証します。 【参考文献】 『南京大虐殺の徹底検証』東中野 修道著 展転社 『南京虐殺の虚構』田中正明著 日本教文社 『南京事件の総括』田中正明著 小学館文庫 『南京で本当は何が起こったのか』阿羅健一著 徳間書店 「愛国心」を持ち、自信のある国民を育むために 2014.09.28 文/政務調査会チーフ 小鮒将人 ◆平成20年に改正された教育基本法 私たち幸福実現党は、昨年より「日本の誇りを取り戻す」活動を展開し、国会での議論や、政府の動きにも大きな影響を与え続けています。 そうした中、来年、全国の中学校の教科書について4年に一度の見直しの時期がやってきます。 第1次安倍内閣の平成18年、教育基本法が約60年ぶりに改正され、「愛国心」にも関係する内容として、以下のような文言が掲げられています。 ※教育基本法 第2条第5項より 「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。」 平成23年に、改正後最初の教科書採択が行われ、その主旨を踏まえた内容が求められましたが、実際には、従来の左翼的な歴史観に基づいた内容が残されており、多くの課題が残っています。 ◆国民の誇りを失わせる「南京事件」の記述 例えば「南京事件」について、幾つかの中学校の歴史教科書の記述では、当時の日本軍による残虐性を想起させるような以下のような言葉を使っています。 T書籍 「特に南京占領にさいしては、捕虜・武器をすてた兵士・老人・女性・子どもまで含めた民衆を無差別に殺害しました。」「この事件は『南京大虐殺』として国際的に非難されましたが、国民には知らされませんでした。」 S書院 「諸外国は、この南京大虐殺事件を強く非難したが、当時の日本人のほとんどはこの事実さえ知らされなかった」 N書籍 「年末には日本軍は首都南京を占領したが、そのさい、20万人ともいわれる捕虜や民間人を殺害し、暴行や略奪もあとをたたなかったため、厳しい国際的非難をあびた(南京事件)」 「南京事件」は、当ニュースファイルで何度も取り上げている通り、当時の国際社会では批判されたこともありませんでした。いわば戦後になって東京裁判において戦勝国側のねつ造によってでっち上げられた「事件」であります。 そのような、ねつ造された事件について、日本人があたかも野蛮な民族であるかのようなイメージを持たせる記述は、子供たちが祖国に誇りを持つことを妨げ、自信を失わせる原因になります。 ◆左翼的な歴史観に基づく記述が目立つ その他、歴史教科書には、韓国や、沖縄に関して左翼的な史観に基づく記述が目立ちます。 その中で、私たちの世代(40歳代)が聞いたこともなかった「琉球処分」なる言葉がゴチック体で記載されています。これは、明治維新後に当時の政府が沖縄を強引に日本領に編入した、ということで一つの侵略の歴史を想起させるものであります。 また韓国関係では、明治期以降の日本による植民地支配で、朝鮮人に対して厳しい弾圧を加えているイメージで覆われています。 その中で、大東亜戦争時に、「多くの朝鮮人が『動員』された」、との記載もありますが、当時、朴槿惠大統領の父親に当たる朴正煕元大統領が血書を書いて士官学校に志願したことや、多くの朝鮮人が志願したことにはほとんど触れていません。 その他、少し目を通してみるだけで、以下のような特徴が目につきます。 ○社会主義的な考え、共産圏の「五か年計画」を評価 ○結果平等の歴史が、「近代化」だという考え。 ○自由主義経済にはバブルが付き物で危険。 ○高度経済成長には、公害などの否定的な印象を与える。 ○農民一揆は、支配者の搾取から逃れることで、正当な事。 本当に子どもたちの幸せを願うのであれば、誇りと自信を持たせる教育を進めるのが、人間として当たりまえの感情です。残念ながら、現状を見る限り、現在の教育はその反対の結果を目指しているように見えて仕方がありません。 このような現状で、教育基本法改正の主旨が理解されたと言えるのでしょうか。大きな不安が残ります。 ◆歴史教育の中で教えるべき事は何か 日本人として、本当に教えるべき自国の歴史として ○過去に努力によって成功し、尊敬された数々の偉人たち ○欧米諸国に比較して、非常に長い歴史を持っている事 ○歴代の天皇を中心に、徳に基づき「和の政治」が行われてきた事 など、もっと強調されてもよいのではないでしょうか。 例えば、渡部昇一上智大学名誉教授も指摘しているのですが、平安時代では、300年にわたり、一件も死刑がなかったといわれています。こうしたことは、世界に誇るべきことでもあります。 また、大東亜戦争をきっかけにして、アジア・アフリカの諸国が欧米の植民地支配から独立を果たすことができ、インドなど多くの国々から感謝されていることが全く記載されていないことが、大きな問題だと思います。 ◆愛国心が育つ歴史教科書の採択を 以上のように「愛国心を持つ子供たちを育てていく」ためには、教育基本法に沿った日本の神話や日本の偉人を数多く取り上げる方針を明確にした歴史教科書を採択する必要があります。 中学校の歴史教科書の採択は、平成27年度において、地元の住民の声を聞く「パブリックコメント」などの機会もあります。多くの国民の声を結集し、日本の誇りを取り戻し、「愛国心」を持つ子供たちを育てて参りましょう。 すべてを表示する « Previous 1 … 13 14 15 16 17 … 30 Next »