Home/ 佐々木 勝浩 佐々木 勝浩 執筆者:佐々木 勝浩 幸福実現党 広報本部スタッフ 安保法制は「戦争法」ではない3つの視点【後篇】 2015.11.14 文/幸福実現党・政務調査会 佐々木勝浩 前回、ポイント1――安保法制は「戦争法」でなく「戦争抑止法」であること。 ポイント2――安保法制は、「邦人救出法」であることを述べて参りました。 ◆ポイント3――安保法制は、「シーレーン防衛法」 南シナ海は、日本のシーレーン(海上輸送路)です。日本に石油を運ぶタンカーは南シナ海を通ってきます。 中国は、国際海洋法を無視し、フィリピンの抗議に対しても軍事的な圧力を加え、南シナ海でサンゴ礁を勝手に埋め立て軍事基地化してきた国です。 南シナ海全部が自分のものだと主張する中国は外国が南シナ海を航行することを制限しようとしているので、このまま何もせず黙っていたら南シナ海は中国の海となり自由に航行ができなくなります。 安保法制に反対する人々は、中国に対して「話し合いで解決すべき」と言いますが、中国軍が南シナ海から撤退するような、どんな効果的な抗議をしたのでしょうか? オバマ大統領は、9月末の米中首脳会談で、この「南シナ海問題」を取り上げ、習近平氏に対して話し合いで「重大な懸念」があると伝えましたが、習近平氏は「南シナ海の島々は中国固有の領土」と反論しました。 中国の南シナ海を支配するための戦略は、「中国とフィリピンの問題」だと主張し、大国アメリカの介入を防ぐことです。中国は軍事力の弱いフィリピン一国が相手であれば、軍事力でひねり潰すことは簡単なことです。 しかし軍事力で上回るアメリカがフィリピンを支援すれば、それだけで中国は手を出すことはできなくなります。 話し合いも通じない中国に対して、ついに米国は南シナ海の「航行の自由作戦」として軍艦を派遣しました。これは決して戦争をするためではありません。 アメリカは軍艦の航行を既成事実化し、中国の南シナ海の軍事基地化を抑止することによって自国の船だけでなく外国船の「自由航行」を守っているのです。 ◆日本を滅ぼす「安保法制反対」「脱原発」 安保法制に反対して国会を取り囲んでいる人々は、原発も反対しています。 脱原発派は、太陽光で電力をつくれば良いと言いますが、現在は火力発電が日本の経済を動かしています。火力発電を動かす石油は中東からインド洋、マラッカ海峡、南シナ海の海上輸送路を通ってきます。 安保法制反対派は、中東方面の海域で機雷が設置されても、その掃海のために自衛隊を派遣することにも反対しています。では誰がそれを取り除くのでしょうか。それもアメリカにやらせるのでしょうか。 また中国が南シナ海を封鎖するようなことがあれば、日本のエネルギーは完全にストップします。 原発を稼働させれば、日本国内でエネルギーをつくることもできますが、エネルギーを石油に頼っている現在、安保法制反対派は、どうやってこのシーレーンを守るのでしょうか? 「脱原発」で自国のエネルギー生産を止めながら、「安保法制反対」で石油を運ぶ海上輸送路の防衛のために自衛隊も派遣しないというわけです。 海上輸送路が危機になれば日本の経済は成り立たなくなります。電力がなければ、企業は倒産します。失業者も増えるでしょう。 「安保法制反対派」「脱原発派」は、今度は「仕事よこせ集会」を国会の前でやらざるを得なくなります。自分たちがその原因をつくったことも気がつかずに。 「一国平和主義」、つまり、自分の国、自分の生活にしか関心がなく、国際情勢がどのように動いているのかも分かっていません。 もっと視野を広く持ち日本が置かれている国際情勢に関心を持てば、いま日本が何をなすべきか気がつくはずです。 安保法制に反対する人々は、だいたい口々に言います。「人は殺してはいけない。もし攻めてくる国があれば自分は逃げる」・・・そんな人々に政治を口にする資格はありません。 自分の命を守ることが第一で、国民の命をどう守るのか、国際社会で日本がどんな責任を果たせるのか、それが政治にかかわる者の責任です。 ◆戦争の原因をつくっている「安保法制反対派」 先の大戦の最大の理由は、石油の70%を頼っていたアメリカに石油を止められたことが大きな原因でした。エネルギーをストップされたから、日本は自滅するか、戦争をするしかなくなくなったのです。 つまり「安保法制反対派」は、「戦争はさせない」と言いながら、逆に戦争の原因をつくっているとも言えます。 以上、安保法制は、「戦争法」ではなく、「戦争抑止法」「邦人救出法」「シーレーン防衛法」です。これを「安保法制反対派」の人々に伝えたら、考えが変わる人もいると思います。 彼らの行動力を凌駕する我々の活動が必要な時です。その為に、今後も幸福実現党は頑張って参ります! 安保法制は「戦争法」ではない――3つの視点【前篇】 2015.11.13 文/幸福実現党・政務調査会 佐々木勝浩 ◆安保法制は「戦争法」ではない 安保法制が可決されてもなお、共産党を中心として、「戦争法廃止」を求める署名活動を展開しています。 しかし安保法制は、「戦争をするための法律」ではありません。その論拠として、今回は「3つの視点」を提示します。 ◆ポイント1――安保法制は「戦争法」でなく「戦争抑止法」 安保法制に反対する人々が言うように「日本が二度と戦争をしない国」になっても、中国や北朝鮮は「戦争を放棄しない国」です。 日本が戦争をしたくなくても中国や北朝鮮は戦争を想定していることを忘れてはなりません。 中国は、1970年代に尖閣諸島海域に海底資源があると分かると尖閣諸島を自分達の領土と言い始め、最近は、沖縄も中国のものと言い始めています。 習近平は、2013年に甘粛省蘭州軍区を視察の際に、「部隊は、招集されれば直ちに駆け付け、駆け付ければ戦争できる状態にし、戦えば必ず勝利するよう確保しろ」と指示しています。 (2013年2月7日『解放軍報』) また北朝鮮は、「東京、大阪、横浜、名古屋、京都の地名をあげて「朝鮮敵視は破滅をもたらす。1940年代の核の惨禍とは較べられない災難を被る」(労働新聞2013年4月10日)と日本の都市を名指しでミサイル攻撃すると言いました。 日本は戦争をしたくなくても、戦争を仕掛けてくる国が隣国にあるならば、「戦争にならないために何が必要か」を考えなくてはならないのです。 中国側から見てみましょう。攻めたい相手が一国で、中国より軍事的に弱ければ戦争に勝てます。 しかし、日本を攻めたらその後から軍事大国の米軍も参戦してくるということになれば、中国は簡単に日本を攻撃できなくなります。これが集団的自衛権の持つ「抑止力」の意味です。 ですから安保法制は「戦争をするための法律」ではなく、「戦争を抑止する法律」なのです。 ◆ポイント2――安保法制は、「邦人救出法」 今年8月、南北の軍事境界線の韓国側で地雷が爆発し、韓国軍下士官が負傷した事件を機に、北朝鮮と韓国は戦争寸前まで緊張が高まりました。 今回は南北対話で戦争の危機は回避されましたが、現在は休戦状態であり、完全に戦争の危機が回避されたわけではありません。 もし朝鮮半島で有事となれば、韓国には、約3万人の邦人がいます。 もし戦争になれば、韓国の約3万人の邦人を救出しなければなりません。自衛隊の船だけでは救出は無理で、民間の船も出さざるを得ないでしょう。安保法制は、こうした対応にも有効です。 つまり、日本の民間船を出して米国や邦人を救出し、自衛隊と米艦隊が護衛することで3万人を安全に救出することができます。 この点について私は、先日某大学で行われた安保法制に関するシンポジウムの質疑応答で安保法制反対派である日本共産党の衆議院議員に、朝鮮半島で有事になった際、どうやって邦人を救出するのか質問をしました。 答えは驚くべきことに「民間が救出に向かい解決すると法律で決まっています」と平然と答えたのです。これには私も呆れてしましました。 安保法制反対派は、邦人の救出のため民間人を紛争地に丸腰で行かせるのだそうです。「自衛隊を死なせてはならない」が民間人は死んでもいいと言っているようなものです。 ここからも日本共産党の「戦争反対」のスローガンが、日本人の生命は守れない、いかに空しい言葉であるかがわかるでしょう。 過去の教訓として邦人救出に民間を戦争地域に向かわせることはできいことがわかっています。 「イラン・イラクの戦争」の際、1985年、イラクのフセイン大統領は、イラン領空を「戦争空域」と宣言し48時間の猶予期を設け、それ以降はイラン上空を飛ぶ航空機を無差別に攻撃すると声明を発表しました。 イランの在留外国人は一斉に出国しましたが、在留邦人を乗せてくれる飛行機はなかったのです。 日本政府は日本航空にチャーター便の派遣を依頼したのですが、日本航空の労働組合は、組合員の安全が保障されないことを理由に要請を拒絶しました。 日本共産党には支持母体である労働組合を説得して民間人を戦争の地へ派遣していただきたいものです。 結局、イランの在留邦人は、近隣国のトルコが飛行機を飛ばしてくれ、タイムリミットのギリギリのタイミングで在留邦人を救出してくれました。トルコ人は陸路避難を余儀なくされましたが、だれも日本人に文句をいうものはいなかったのです。 ここで詳しいことは述べませんが、トルコがなぜ日本人を救出してくれたかは下記をご覧ください。 参考:映画「海難1890」――12月5日公開! 「日本人が知らない奇跡の実話、なぜあのときトルコは日本を助けてくれたのか」 http://www.kainan1890.jp/ 朝鮮半島有事の際に、3万の邦人をどうやって救出するのかを考えれば、安保法制が「戦争をするための法律」ではないことが分かるはずです。 次回、ポイント3――安保法制は、「シーレーン防衛法」であること、「安保法制反対派」は「脱原発派」でもあり、日本を滅ぼす理由でもあることを明らかにします。 (つづく) ノーベル賞受賞者・大村氏にみる理想の「科学者像」 2015.10.10 文/幸福実現党・政務調査会 佐々木勝浩 ◆日本から二人のノーベル賞 今年のノーベル生理学・医学賞には北里大学・特別栄誉教授の大村智氏が、ノーベル物理学賞には東京大学の梶田隆章氏が受賞しました。 この受賞は日本全体を明るくし、安倍首相も「日本人として誇りに思う」と讃えています。 ◆「人のためになることをしろ」 テレビで大村智氏が色紙に書かれた「敬神崇祖」と言う色紙が紹介されていました。大村氏が「信仰心」を大切にされていたことが伺われます。 またインタビューを受けて、祖母の「人のためになることをしろ」という教えを強調されていたことがとても印象的でした。祖母の教えは、大村氏の人生に一貫して流れています。 今回ノーベル賞受賞のきっかけになったゴルフ場の土の中の微生物からつくられた薬は、アフリカや中南米の人々を失明から救っています。その数は年間3億人、それが無償でなされているのです。 また若いころ高校の定時制で教師をしていた時には、「油のついた手」で学ぶ生徒の姿に胸を打たれ、奮起して定時制の教師と両立しながら大学で化学を学び直し刻苦勉励しています。 祖母の教えや教え子の学問へ取り組む姿が、大村氏を次のステージへと導いていきました。後には北里研究所で微生物を分析する手法が買われ米大学に留学するチャンスもつかみました。 誰の人生にも「チャンスは平等」に用意されているものです。そのチャンスが、人生のなかで至る所にちりばめられているものです。今回の大村氏のノーベル賞受賞はそれを教えてくれています。 ◆「企業家的才能」を備えた科学者 大村氏のすごいところは、定時制の教師と大学での研究の両立、刻苦勉励だけではありません。 つまり「社会に有用なアイディア」を実用化し、企業から研究資金を募れるほどのネゴシエーション力を持ち、かつ、それを実現していく力を持った科学者であるところです。 それは「日本の細菌学の父」と呼ばれた北里柴三郎を尊敬する大村氏に、『実学の精神』が流れているからでしょう。 科学者としては優れていても、その研究資金がネックとなって思うような研究ができないこともあります。それを克服する方法が「研究を経営する」ことです。 大村氏自身も、36歳で米国に留学した際に、「戻ってきても研究費はない」と言われ、米国の製薬会社を回り、帰国前に年間8万ドルの研究費の提供を3年間受ける契約を結びました。これは、「産学連携」のさきがけでもあります。 「大村方式」は、研究室で有用な科学物質を探し、医薬品開発と販売は米国の製薬会社が独占的に担い、特許を共有し、その特許料で研究室の人件費や設備投資に回す仕組みです。 「企業の下請けとならず、研究室の根幹は自分たちで決める」ことを重視しています(毎日10/6)。その特許料は驚くことに200億円以上にもなりました。 特許収益で建設された北里研究所メディカルセンター(埼玉県北本市)は、病院でありながら絵画数百点を展示しエントランスではコンサートもできます。 ◆限られている私大の研究費補助金 ちなみに大村氏のノーベル受賞は、私立大の研究成果で受賞するのは初めてで、赤崎勇氏ら私立大の受賞者もいますが、受賞対象はかつて所属した国立大などでの実績でした。(毎日10/6) 文科省によると、15年度に新規採択された科研費の主要種目636億円のうち、私立大は113億円(17.8パーセント)にとどまります。 大村氏の抗生物質研究には約10億円かかっており、国からの補助は約4億円、残りを企業と組んで工面しています。 ◆「他がやらない分野」と「逆転の発想」 また大村氏の成功の要因は「他がやらない分野」に活路を見出したことにあります。 当時、人間の薬を動物へ転用が多かったのですが、動物薬(寄生虫駆除の薬)を人間に転用した「逆転の発想」からアフリカや中南米の人々の失明を救う薬は生まれたのです。 こうした「逆転の発想」は研究方式にも表れています。当時の抗生物質の研究は、天然の化合物から役に立つ性質を見つけ、その後に構造を決定する流れでした。 しかし大村氏の研究はその定石を無視して逆に、化合物を見つけて構造を決定し、その後に性質を解明するというものでした。(産経10/6) ◆研究グループのチーム力 大村氏は、研究所で「他人の成果の上に立って何かをやるのではなく、自分で新しい物質を見つける研究をしよう」と誓い合いっていました。 土の中から薬として役立つ微生物を見つけ出す研究チームは、年間に6000種の物質を分析するといいます。いわば砂山から「砂金」を見つけるような苦労が伴います。 大村氏は、こうした研究チームへの感謝を忘れていません。「いつも数十人で心を一つに歩んできたことは、非常に幸せ」と感謝しています。このチームへの大村の感謝の心こそがノーベル賞に導いたのではないでしょうか。 今回のノーベル賞受賞は、若い科学者に希望を与えたのではないでしょうか。未来の日本にも大村氏のような科学者が出てくることを期待します。 大村氏の特徴は、一言でいえば、『実学の精神』ですが、もう一人の受賞者梶田氏は、『宇宙の解明』です。これについては、また回をあらためて論じることとします。 参考 『未来にどんな発明があるとよいか』大川隆法著 『「未来産業学」とは何か』大川隆法著 終戦後の食料危機を救われた昭和天皇 2015.09.08 文/幸福実現党・政務調査会 佐々木勝浩 ◆終戦後の食料危機 前回、マッカーサーと昭和天皇の会見の話を紹介しました。 「昭和天皇とマッカーサーの会見秘話」 昭和天皇とマッカーサーの会見秘話 戦争は終わったものの、昭和20年、終戦の年もくれる12月になると日本は極度な食料難に陥っていました。年が変わり21年になると「1000万人の餓死が出るのではないか」とささやかれました。 米国占領軍によって獄中から釈放された共産主義者が呼びかけ、昭和21年5月19日には、赤旗を掲げた「米よこせデモ」が皇居の中にまで押し寄せました。 「米よこせデモ」のプラカードには、以下のような昭和天皇を侮辱するような言葉もありました。 〈朕(チン)はタラフク食ってるぞ ナンジ人民 飢えて死ね〉 ◆国民の飢餓を救った昭和天皇 しかし昭和天皇は、「米よこせデモ」の半年前の昭和20年12月、鳩山一郎内閣の文相である松村謙三氏に、次のように言われています。(「三代回顧録」松村 謙三著) 『食料の悪化は、このまま推移すれば多数の餓死者をだすようになるというが、戦争に塗炭の苦しみをした国民に、このうえさらに多数の餓死者をだすようなことはどうしても自分にはたえがたいことである。』 『政府ではアメリカにたいして食料の提供を要請しているが、アメリカはこれに応諾を与えてくれぬそうであるけれども、考えてみると当方からは食料の代償として提供すべき何物もないのだからいたしかたない。』 『それで、聞けば皇室の御物の中には、国際的価値のあるものが相当あるとのことである。よって帝国博物館の館長に命じて調査させ、その目録を作成させたのがここにある。』 『これを代償としてアメリカに渡し、食糧にかえて国民の飢餓を一日でもしのぐようにしたい。そのように取りはからうに。』 マッカーサー元帥に、昭和天皇の心持ちを伝え御物の目録を差し出すと、すでに最初の訪問で「自分の身はどうなっても国民を助けてほしい」という言葉に感動を覚えていた元帥は、こう言いました。 「天皇の考えられることは、まことによく分かるが、自分としてもアメリカとしても、せっかくの懇請であるけれども、皇室の御物を取りあげて、その代償に食糧を提供するなどのことは面目にかけてもできない。」 「この目録は陛下にお返しされたい。しかし国民のことを思う天皇の心持ちは十分に了解される。自分が現在の任務についている以上は、断じて日本国民の中に餓死者を出すようなことはさせぬ。かならず食糧を本国から移入する方法を講ずる。陛下に御安心なさるように申し上げてもらいたい。」 これまで首相、外務大臣が何度も「食糧支援」を懇請していましたが、決して承諾しなかったマッカーサー元帥は、昭和天皇の国民を思うお心に打たれて、即刻アメリカからの食料物資を手配しました。 このように昭和天皇のお心は、〈朕(チン)はタラフク食ってるぞ ナンジ人民 飢えて死ね〉とは、まったく違ったものでした。 ◆今、私たちがこの世に生がある理由 米国から日本に大量の食糧物資が届かなければ、戦後の日本は多数の餓死者が出てもおかしくない状況だったのです。 当時、大量の餓死者が出て、その中にもし祖父母、父母が入っていたら、私たちはこの世に存在していないかもしれません。 歴史とは過去からつながっているものであり、現在の私たちがこの世に生を受けることができたのは、昭和天皇を始め多くの先人方の努力があったからです。 このような先人方の努力に対する感謝を忘れてしまったのが戦後の日本人です。 本当の歴史を取り戻すためには、こうした先人方への感謝から始まるのではないでしょうか。 昭和天皇とマッカーサーの会見秘話 2015.08.22 文/幸福実現党・政務調査会 佐々木勝浩 ◆占領軍マッカーサー元帥を感動させた昭和天皇の言葉 昭和天皇の終戦の御聖断【前編】 http://hrp-newsfile.jp/2015/2356/ 昭和天皇の終戦の御聖断【後編】 http://hrp-newsfile.jp/2015/2359/ 昭和天皇の御聖断によって終戦を迎えた日本ですが、敗戦、占領、それは日本の歴史始まって以来の経験です。 そしてマッカーサー元帥率いる占領軍は、焦土と化した日本に怒涛の如くやってきました。 そのような中で昭和天皇は自分の命を省みず、マッカーサー元帥のもとを訪問されました。時は昭和20年9月27日のことです。 この昭和天皇の訪問の知らせを聞いたマッカーサー元帥の脳裏にはあることが浮かんでいました。 第一大戦直後、占領軍としてドイツへ進駐した父に伴っていった時のことを思い出したのです。この時も敗戦国ドイツのカイゼル皇帝が占領軍の元に訪れました。 カイゼル皇帝は占領軍にこのように言いました。 「戦争は国民が勝手にやったこと、自分には責任がない。従って自分の命だけは助けてほしい。」 まさに命乞いに来たのです。 これを思い出したマッカーサー元帥は、昭和天皇もまたカイゼル皇帝と同じく命乞いに来るのだろうと思ったのです。 ところが、昭和天皇の言葉は全く逆でした。マッカーサーは後にこの時の模様を次のように回想しています。 「どんな態度で、陛下が私に会われるか好奇心をもってお会いしました。しかるに実に驚きました。陛下は、戦争責任の問題を自ら持ち出され、次ようにおっしゃいました。」 『私は、戦争遂行に伴ういかなることにも、また事件にも全責任をとります。また、私は、日本の名においてなされた、すべての軍事司令官、軍人および政治家の行為に対しても直接に責任を負います。自分自身の運命について貴下の判断が如何様のものであろうとも、それは自分には問題ではない。私は全責任を負います。』 「これが陛下のお言葉でした。私は、これを聞いて、興奮のあまり、陛下にキスしようとしたくらいです。」 「もし、国の罪をあがなうことができれば進んで絞首台に上ることを申し出るという、この国の元首に対する占領軍の司令官としての私の尊敬の念は、その後高まるばかりでした。」 (「天皇を讃えるマ元帥」昭和39年9月14日読売新聞) 最初、マッカーサーは、ノーネクタイで昭和天皇を迎えましたが、昭和天応がお帰りになる際は、まるで侍従であるかのように敬虔な態度で握手してお車を見送ったのです。 昭和天皇は、マッカーサーにこの会見の事実は決して他言しないという「男の約束」を交わし別れました。 昭和天皇は、約束通りその事実を誰にも語られませんでしたが、昭和39年になって重光外相の渡米の際、マッカーサーはその時の感動の思いを押さえられず、重光外相に話してしまったのです。 ◆日本の奇跡 「王朝は敗戦を切り抜けることはできない」これが世界の常識です。 先ほどあげたカイゼル皇帝に限らず、ロシア、オーストリア、ハンガリー、セルビア、トルコ各国の王室は廃絶され、また一部は処刑されました。 第二次大戦時も先に書いた通り、ドイツのヒトラーは自殺の末路をたどり、イタリアのムッソリーニは民衆にリンチされ死体は何日間も逆さづりにされ罵倒、むち打ちされました。 イタリアのエマヌエレ三世は民衆の反感にあいエジプトに亡命、後を継いだウムベルト皇太子も亡命し王朝は消滅したのです。 また、ルーマニア、ブルガリア、ハンガリー、ユーゴスラビア、アルバニアなとも共産政権樹立とともに王室は絶えました。 しかし敗戦した日本は今でも「天皇」が存続しています。これは、歴史の奇跡と言ってもいいのです。 なぜ「天皇」は存続できたのでしょうか。そこには2千年にわたる歴代天皇によって受け継がれてきた「天皇の徳」というものがあるからなのです。 これが日本の国体(国柄)というものです。 歴代天皇に受け継がれてきた「天皇の徳」、「日本の国柄」については、また機会をあらため紹介いたします。 昭和天皇の終戦の御聖断【後編】 2015.08.16 文/幸福実現党・政務調査会 佐々木勝浩 ◆青年将校の暴発を鎮めた阿南陸軍大臣 御前会議で昭和天皇の終戦の御聖断があったとはいえ、本土決戦を叫ぶ陸軍の青年将校は、戦わずして敗北を受け入れることができず、終戦を阻むためクーデターを起こそうとしていました。まだ内乱の危機は去っていなかったのです。 昭和天皇の御聖断があった8月14日の深夜、阿南惟幾(あなみ・これちか)陸軍大臣は鈴木貫太郎首相のもとを訪れました。 「自分は陸軍の意志を代表して(御前会議で)随分強硬な意見を述べ、総理をお助けするつもりが反って種々意見の対立を招き、閣僚として甚だ至らなかったことを、深く陳謝致します。」 鈴木首相は、阿南大臣が最後の別れの挨拶に来たことを悟りました。そして阿南大臣にこう言いました。 「私こそ貴官の率直なご意見を心から感謝して拝聴した。みな国を思うの熱情から出たもので、なんら意に介してはおりません。日本のご皇室は絶対に安泰ですよ。」 「(ポツダム宣言を受け入れも)陛下のことは変わりません。何となれば、陛下は春と秋とのご先祖のお祭りを熱心になさっておられますから。」 阿南大臣は強くうなずき、「まったく同感であります。日本は君臣一体となって必ず復興すると堅く信じております。」と答えました。 「先祖のお祭り」とは、歴代天皇の遺志を継ぎ、ひたすらに国民の安寧を祈る皇室の伝統です。この御決意がある限り、すなわち、阿南大臣の言う「君民一体」の国体(国柄)は護持できるということです。 いよいよ御前会議の昭和天皇の御聖断をもとに、終戦の詔勅がつくられ、翌8月15日天皇御自身がラジオで国民に直接呼びかけるという異例の玉音放送がなされました。 ◆阿南陸軍大臣の自刃 一方で阿南大臣はある決意を固めていました。 「一死をもって大罪を謝す」 これは、天皇陛下の戦争を止めるという大御心に背いて、陸軍の最高責任者として、「徹底抗戦」を主張した大罪をお詫びするというものです。 阿南大臣は、陛下の「阿南おまえの気持ちはよくわかる。しかし、自分には国体を護れる自信がある」という言葉を信じ、15日未明、割腹自決を遂げました。 それは、ただの割腹ではなく完全に腹を切り裂くことなく一晩生きたまま苦しみに耐えながらの自刃でした。 阿南大臣の自刃は「終戦の意志は陛下の真実の思いであり、反乱することなく矛をおさめよ」という青年将校たちへのメッセージだったのです。 こうして阿南大臣の自刃の姿を拝して、終戦の決断が昭和天皇の御意向であったことを悟った青年将校たちは反乱の矛先を収めました。 ◆日本を背負って立つ責任感 「自分の身は如何になろうとも」終戦を決断した昭和天皇、「最後の御奉公」として国民の先頭に立って終戦に導いた鈴木貫太郎首相、そして自らの自刃によって青年将校の反乱を鎮めた阿南惟幾陸軍大臣。 この「日本」を背負う責任感、捨て身の覚悟が日本の奇跡的な終戦へと導いたのでした。 この日本を預かった私達の世代は日本国民として、この日本をどのようにすべきなのでしょうか。 その先人方に思いを馳せる時、自分の権利ばかりを主張し国から貰うことばかりを考えている国民、自らの延命を考え言うべきことも言えない政治家、これらがなんとも薄っぺらな生き様に見えてしかたがありません。 「もらう側」ではなく、「与える側」に立ち、国の為に何ができるかを考える国民、他国におもねることなく言うべきは言う「大きな器」を持った哲人政治家の出現が待たれます。 参考図書 『天皇家の戦い』新潮文庫/加瀬 英明著 『鈴木貫太郎自伝』 中公クラシックス)/鈴木 貫太郎著 『聖断 昭和天皇と鈴木貫太郎』 PHP文庫/半藤 一利著 『決定版 日本のいちばん長い日』文春文庫/半藤 一利著 『一死、大罪を謝す 陸軍大臣阿南惟幾』ちくま文庫/角田 房子著 『宰相鈴木貫太郎』文藝春秋/小堀 桂一郎著 昭和天皇の終戦の御聖断【前編】 2015.08.14 文/幸福実現党・政務調査会 佐々木勝浩 ◆戦争を終わらせることは、戦争を始めるよりも難しい はじめに、戦後70年目の終戦の日を迎え、大東亜戦争で国の為に命を捧げられた御霊に対して心より感謝申し上げます。 現在、終戦に至るまでを描いた映画「日本のいちばん長い日」が話題を呼んでいます。 戦争を終わらせることは、戦争を始めることより難しいことです。終戦の決断をめぐり内乱が起きてもおかしくなかった状況下で、終戦の決断は如何に行われたのでしょうか。 そこには、自分の命に代えても日本の国を後世に残こそうとされた先人方のすさまじい覚悟がありました。 ◆鈴木貫太郎の最後の御奉公 昭和20年4月、戦況悪化の責任をとって辞職した小磯國昭の後継を決める重臣会議が持たれました。その会議で後継に推薦されたの、侍従職の経験もあり昭和天皇から信任が厚かった鈴木貫太郎でした。 鈴木貫太郎は総理就任にあたり、国民に次のように呼びかけました。 ※日本ニュース第250号(昭和20年4月23日)戦争証言アーカイブス. NHKより(動画) (http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300378_00000&seg_number=001) 「私に大命が降下いたしました以上、私は私の最後のご奉公と考えますると同時に、まず私が一億国民諸君の真っ先に立って、死に花を咲かす。国民諸君は、私の屍を踏み越えて、国運の打開に邁進されることを確信いたしまして、謹んで拝受いたしたのであります。」 鈴木貫太郎は、自分の内閣で終戦に導くという大命を自覚していました。 ◆終戦の御前会議 戦況はますます悪化し8月6日には広島に、9日には長崎に原爆が落とされました。さらに日本が和平交渉仲介を依頼していたソ連が、9日に突然宣戦布告してきたのです。 9日深夜と14日にも御前会議(天皇陛下をお迎えしての会議)が開かれました。会議は日本に降伏を求めたポツダム宣言を受諾すべきとする東郷茂徳外相ら3名と徹底抗戦を主張する阿南惟幾陸軍大臣ら3名に分かれました。 ここで鈴木首相が前者に賛成すれば、4対3の多数決でポツダム宣言の受諾を決議できるのですが、戦わずして敗北を受け入れることができない徹底抗戦を叫ぶ青年将校たちの暴発は止められないと考えていました。 一方で鈴木首相は、終戦の決断が遅れれば、ソ連が満洲、樺太ばかりでなく、北海道にも進攻し、ドイツ同様に分割されてしまう、そうなれば日本の滅亡は免れない、相手がアメリカであるうちに終戦の決着をつけなければならないとも考えていました。 そこで、鈴木首相は昭和天皇に御聖断を仰ぐことによって終戦に導こうと考えたのです。これは昭和天皇と侍従を務めたことのある鈴木首相であるからこそできたともいえます。 鈴木首相は静かに陛下の前に進み、大きな体をかがめて礼をしてお願いしました。 「遺憾ながら3対3のまま、なお議決することができません。この上は、まことに異例でおそれ多いことでございますが、陛下の御聖断を拝しまして、本会議の結論といたしたいと存じます。」 ◆昭和天皇の御聖断 以下は14日の時のお言葉ですが、昭和天皇は時々、白手袋をした右手を頬に当てながら次のように述べられました。 「世界の現状と国内の事情とを十分検討した結果、これ以上戦争を続けることは無理だと考える。国体護持(日本の天皇中心の国柄を守ること)の問題について、いろいろ疑義があるらしいが、(中略)要はわが国民全体の信念と覚悟の問題と思うから、この際(ポツダム宣言の)申し入れは受諾してよろしいと考える。みなもどうかそう考えてほしい。」 それを聞いて会議の席で皆は涙があふれていました。昭和天皇も、涙をぬぐい続けました。 「陸海軍の将兵にとっては、武装の解除なり保証占領というようなことはまことに耐えがたいこと、その気持ちはよくわかる。」 「しかし、自分はどうなろうとも万民の生命を助けたい。このうえ、戦争を続けていれば結局はわが国がまったくの焦土となり、万民にこれ以上の苦悩をなめさせることになり、自分としてはじつに忍び難い。祖宗の霊にも、お応えできない。」 「和平の手段にしても、先方のやり方に全幅の信頼がおけないのは当然であるが、日本がまったくもってなくなるという結果に比べれば、少しでも種子が残りさえすればさらにまた復興の光明も考えられよう。」 「明治大帝が涙をのんで思い切られた三国干渉当時のご苦喪をしのび、この際、耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、一致協力して将来の回復に立ち向かいたいと思う。」 「今まで戦場で陣没し、あるいは殉職して非命にたおれた者、またその遺族を思うと悲嘆に耐えぬ。また、戦傷を負い、戦災をこうむり、家業を失った者の生活について、自分の心配するところでもある。」 「この際、自分としてはなすべきことがあれば、なんでもいとわない。国民に呼びかけることがよければ、いつでも自分はマイクの前にも立とう。」 下記は、昭和天皇が昭和20年に詠まれた御製(ぎょせい:天皇陛下が詠まれた和歌)です。 爆撃に たふれゆく民の 上おもい いくさとめけり 身はいかならむとも 身はいかに なるともいくさ とめにけり ただたふれゆく 民をおもひて 「自分の身はどうなってもかまわない。苦しんでいる国民を助けたい」、これが昭和天皇の御心でした。 (【後編】につづく) ※なお、政党より下記声明を発表しましたのでお知らせいたします。 ■「戦後70年談話」を受けて(党声明) http://info.hr-party.jp/press-release/2015/4585/ ■終戦の日にあたって(党声明) http://info.hr-party.jp/press-release/2015/4590/ 「自虐史観を一掃する70年談話を求める署名活動」ラストスパート! 2015.07.15 文/幸福実現党・政務調査会 佐々木勝浩 ◆日本の世界遺産の登録を逆手にとって世界に反日を宣伝する韓国 7月6日、ユネスコは日本が世界遺産に申請していた「明治日本の産業革命遺産」の登録が決定するという大きな動きがありました。 しかし、日本政府は声明の中で当初から同登録に反対してきた韓国の意を組んだ上で「意思に反して労働を強いられた(forced to work)」朝鮮労働者がいたことを認める考えを示しました。 日本政府は、「労働を強いられた」(forced to work)という意味は、「強制労働」を意味するものではないと否定はしていますが、韓国側は大々的に日本が国際舞台で「強制労働」をはじめて認めた(朝鮮日報)と報道しています。 また日本政府は、声明の中で被害者を記憶にとどめる「情報センター設置」などの処置を取る用意のあることを発表しています。これは「自虐史観」や「反日」を宣伝する情報センターを日本国内に設置するようなものです。 中国がユネスコの「記憶遺産登録」で「南京大虐殺」などを捏造することで日本を貶めようとしていますが、韓国は「世界遺産登録」を逆手に取って反日の宣伝に使おうとしています。 ◆幸福実現党長崎県本部の署名活動 このまま韓国側が「強制労働」を強調すれば、日本が世界的に注目度の高い世界遺産登録で逆に日本の立場を貶めかねない状況です。まるで第二の「河野談話」を世界に発信してしまったようなものです。 長崎では幸福実現党長崎県本部が、朝鮮人の強制労働を盛り込んだ平和記念公園の「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」反対署名運動を行い、長崎市議会に陳情を行いました。 その結果、市民からも慰霊碑の建設に対する疑問の声があがり、現時点で設置するかの最終的な判断がなされておりません。つまり実質設置ストップを勝ち取ったのです。 しかし今回の「情報センター設置」は「強制労働」を認めることになりかねません。 ◆戦時徴用をめぐる被害賠償請求裁判に結び付けられる可能性 今回の決定について韓国側外務高官は、「強制労働の被害者の苦痛を記憶に残し、歴史の傷を癒す重要な一歩だ」と発言していますが、それが引いては、戦時徴用をめぐる被害賠償請求裁判に結び付けられる可能性が高まっています。 すでに過去には名古屋市の軍需工場で強制的に働かされたとして元女子勤労挺身隊の韓国人女性や遺族が三菱重工業に損害賠償を求めた訴訟で、光州高裁は約6300万円の支払いを命じた裁判などが起きています。 そもそも日本が世界遺産に申請した歴史は明治時代のもので、韓国は昭和の戦時中の出来事に文句をつけており、筋違いも甚だしいと言わざるを得ません。 そして歴史の真実として戦時中の「国民徴用令」は、賃金の支払いも定めた合法的な労働動員です。もちろん日本人にも適用されており、先の大戦で主要参戦国でも同様の制度を強いていました。従って韓国側の「強制労働」という批判は誤りです。 「強制労働」という「ありえないこと」を事実としてしまった外務省の判断根拠は、まさに自民党政府が出した「河野談話踏襲」にあります。 ◆「70年談話を求める署名活動」ラストスパート! 一般の方からも、「今回の世界遺産の顛末を見てほとほと自民党が嫌になった、ぜひ頑張って下さい!」という意見が寄せられています。 日本の名誉を回復し正しい歴史観を取り戻すことができるのは。幸福実現党しかありません。 「世界記憶遺産」を政治利用した韓国の国際的な反日包囲網を払拭するためにも、安倍首相より自虐史観を一掃する『戦後70年談話』を世界に発信してもらわなければなりません。 署名は7/23締め切りラストスパートです。頑張って参りましょう! ◆「『河野・村山談話』の無効を宣言し、自虐史観を一掃する『戦後70年談話』を求める署名」 http://info.hr-party.jp/2015/4162/ 【署名送付先】〒107-0052 東京都港区赤坂2-10-8-6F 幸福実現党本部 TEL:03-6441-0754 「東京裁判」――日本の無罪を訴えたパール判事 2015.06.27 文/幸福実現党・政務調査会 佐々木勝浩 ◆勝者のアメリカに日本を裁く資格があるのか 極東国際軍事裁判、いわゆる「東京裁判」は、終戦後の昭和21(1946)年5月から昭和23(1948)年11月にかけて行われました。 アメリカは、ドイツのユダヤ人大虐殺と同じように、日本が戦争でやった残虐な行為を裁く必要がありました。 なぜならアメリカは、東京空襲で10万人、広島長崎の原爆で20万人の民間人を虐殺しました。こうした国際法に悖る行為を打ち消すために日本の残虐性を世界にアピールする必要があったからです。 東京裁判は最初から日本を悪者にするという結論があり、そこに導くため裁判で、偽証罪も問われず、ウソの証言も検証されず採用されました。 その最たる例が、「南京虐殺」です。一例をあげるなら、崇善堂という慈善団体が行ったという南京での「15万の遺体の埋葬記録」ですが、これは東京裁判のために戦後になってつくられた架空の数字です。 なぜ架空と分かったかというと、崇善堂という慈善団体は、当時埋葬活動を行っておらず、南京戦前後は活動をしていないことが当時の南京市の記録で明らかになったからです。 しかしそ架空の「15万の遺体の埋葬記録」がそのまま採用され、「日本軍は20万人の市民を虐殺した」と判決が下されました。その責任を取らされ絞首刑になったのが南京の総責任者であった松井岩根大将です。 ◆東京裁判で日本の無罪を主張したパール判事 この東京裁判の連合国側の判事で、唯一日本の無罪を主張したのが、インドのパール判事です。パール判事はこう言います。 「わたしは1928年から45年までの18年間の歴史を2年8カ月かかって調べた。各方面の貴重な資料を集めて研究した。(中略)このわたくしの歴史(パール判決書)を読めば、欧米こそ憎むべきアジア侵略の張本人であることがわかるはずだ。」 「(日本人は)自分らの子弟に『日本は国際犯罪を犯したのだ』『日本は侵略の暴挙を敢えてしたのだ』と教えている。日本の子弟が歪められた罪悪感を背負って卑屈・頽廃に流されてゆくのを、わたくしは見過ごして平然たるわけにはゆかない。」 ◆パール判事は広島をどう見たか またパール博士は、原爆慰霊碑である「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませぬから」を知った時、「この《過ちは繰返さぬ》という過ちは誰の行為をさしているのかと日本人に尋ねたことがあります。 「その原爆を落した者は日本人でないことは明瞭である。落した者が責任の所在を明らかにして『二度と再びこの過ちは犯さぬ』というならうなずける。」とその碑の矛盾を指摘しています。 「アメリカは原子爆弾を投ずべき何の理由があっただろうか。そこに人種的偏見はなかったか。これを投下したところの国から、真実味のある、心からの懺悔の言葉をいまだに聞いたことがない」(1952年11月に、広島で開催された「世界連邦アジア会議」の講演)と批判しました。 ◆パール判事が残した「大亜細亜悲願之碑」 そしてパール博士は、広島の「過ちは繰り返しませぬから」に代わる碑文として本照寺にある「大亜細亜悲願之碑」の言葉を残しました。 激動し変転する歴史の流れの中に 道一筋につらなる幾多の人達が 万斛の思いを抱いて死んでいった しかし大地深く打ち込まれた悲願は消えない 抑圧されたアジアの解放のため その厳粛なる誓いにいのち捧げた魂の上に幸あれ ああ 真理よ あなたは我が心の中に在る その啓示に従って 我は進む パール判事が指摘するように、日本人は自らの国の真実の歴史を取り戻さなくてはなりません。戦後70年の時を迎えその時は今ではないでしょうか! 沖縄――視野を広げることで「真実」は見えてくる 2015.06.05 文/幸福実現党・政務調査会 佐々木勝浩 ◆沖縄からの抗議の電話 先日5月17日の「沖縄県民集会」ですが、下記の動画がインターネットにアップされました。 「オール左翼」の5.17沖縄県民大会【沖縄最前線!】 その直後、沖縄から抗議の電話がかかってきたのです。 「自分は、5月17日の沖縄県民集会に参加したが、なにが『オール左翼』だ!自分は左翼でもなんでもない。なんで沖縄県民を『オール左翼』だと決めつける!」 声の主は相当、怒り心頭で、確かに、沖縄に住んでいる人からすれば「オール左翼」と言われるのは、心外かもしれません。 どう返そうか、一瞬迷いましたが、これも「対機説法」です。 「私も当日参加しましたが、沖縄県民の方だけでなく、大阪、北海道、三重、千葉など、全国の労働組合の人たちが参加していました。それを『オール左翼』と言っているんです。」 「でも自分は左翼でもなんでもない!」 「そうですね。あなたは沖縄の方であり純粋に参加したのでしょう。」 「そうだ。だから左翼ではない!」 「私たちが言いたいは、翁長知事が前から『オール沖縄』という言葉を使い、あたかもオスプレイや米軍の辺野古移設に対して沖縄県民の全てが反対であるかのような印象操作をしているので、それを打ち消す意味で『オール左翼』という言葉を使い批判しているんです。」 「いや沖縄県民は、約80%が米軍反対だ。」 「私がつかんでいる感覚では、米軍反対は半分ですね。米軍を認めるような発言をするとすぐ左翼が攻撃し言論を封殺するので米軍反対派の声しか聞こえていないだけです。だから『オール沖縄』ではありません。」 「そんなことはない。米軍反対派がはるかに多い。」 他にも、普天間基地の辺野古移転が出来ない理由など話したのですが、ずっと平行線は続きました。そこで私は視点を変えました。 ◆沖縄を思う気持ちは同じ 「ところであなたは沖縄をどうしたら幸せにできるかを考えて頑張っているのですよね。それは私も同じです。私だって沖縄県の人たちに幸せになってもらいたいから活動しているのです。その思いは同じです。」 日本を中国に差し出そうとする確信犯は別にして、お互いに「沖縄を愛している」という「同じ原点」に立つと、相手も自然と声を和らげ、聞く耳を持つようになりました。 「米軍がない方が沖縄にとっては良い、それはわからないわけではありません。しかし1980年代にフィリピンは、米軍を追い出した後、中国がそれまでフィリピンが領有していた海域をどんどん取ってしまいました。最近は人工島を造って軍事基地にまでしています。」 「う~ん!?」 「中国は台湾だって2020年くらいまでに取ろうとしているし、沖縄だって中国のものだと最近は言っています。」 「台湾を2020年までにとると言ってるの?」 「邪魔な米軍がなくなれば、中国は沖縄だって取りやすくなります。中国だって頭が良いですから米軍に弾丸は撃ちません。国連に働きかけ米軍を沖縄から追い出す画策をしているんですよ。」 【参考】――「中国、アルゼンチンなど少なくとも6カ国が沖縄の米軍基地に関し、沖縄の人々の自己決定権や土地権、環境権、女性の人権などが侵害されているとし、米国に改善を勧告したことが19日分かった。(5/20琉球新報)」 私は続けました。 「チベットやウイグルだって中国の自治区になり、人権侵害しています。このままでは沖縄も同じようになる方向に向かっているし、だから私は沖縄を守りたいと真剣に考えています!」と確信を込めて伝えました。 その後、「原発は賛成か、反対か」の質問を受け、「日本の経済を考えれば原発は、再稼働すべき」とはっきり申し上げましたが、最初のような反発は返ってきませんでした。 試しに「また沖縄に行きますから会いますか?」と聞いてみると、「それはごめんだ」という様子で、最後は「いろいろと教えていただきありがとうございました」と電話は切れました。 ◆視野を広げることで「真実」は見えてくる 今回の教訓は、沖縄の「閉ざされたマスコミ報道」の中で生きていると、知らず知らずに左派の感化を受けてしまうということです。 「世界観が沖縄だけ」であれば、それは米軍がない方が良いに決まっています。しかし「もっと広い視野」で世界を見れば、沖縄を狙っている国の存在が見えてきます。 沖縄という空間から視野を広げることができれば、どんな選択をすべきか自ずと見えてくるのです!こうした啓蒙活動が沖縄には必要なのかもしれません。 すべてを表示する « Previous 1 … 3 4 5 6 7 … 22 Next »