Home/ 金城 竜郎 金城 竜郎 執筆者:金城 竜郎 幸福実現党沖縄統括支部代表 沖縄マスコミと田中前防衛局長更迭事件 2011.12.05 民主党政権は発足当初、「対等な日米関係」を目指すため、核持ち込みをめぐる日米間の「密約」を国民に暴露し、かつ親密な日中関係を築き、「友愛精神」に基づいた「東アジア共同体」構想を掲げ、「日米中の正三角形」等距離外交を展開しようと試みました。 この動きは、米国の「核の傘」から離脱し、かつ中国に対しても核兵器削減を要請することによって、日本主導で「アジア・環太平洋の平和を演出する」という夢想がもたらしたものだったのではないでしょうか。 当然、中国は我が国の要求に応じるはずがありません。12/5の産経は「中国の核弾頭は3000発?学生暴く 推計大きく上回る可能性」という記事を掲載し、中国が従来の推計(400発)を大幅に上回る数の核ミサイルを開発していることを明るみにしています。⇒http://p.tl/oZ5P そして昨年5月、民主党政権は現実に立ち戻らざるを得なくなりました。鳩山元首相は「学ぶにつけ、沖縄に存在する米軍全体の中で海兵隊は抑止力を維持できるという思いに至った。(認識が)甘かったと言われればその通りかもしれない」と自らの誤りを完全に認めました。 その時、米国から我が国につきつけられたのは「あなた方は本当に約束を守る気はあるのか?」ということでありました。 その約束とは2006年の「在日米軍再編合意」であり、その後、民主党政権がまた振り出しに戻した後に、再度合意に戻った2010年5月の「日米共同宣言」にある普天間飛行場の辺野古移設の履行を指します。 法律的には、「日米合意」に基づいて辺野古沿岸部の埋め立てを申請する前提として、年内に環境影響評価書を県知事宛て提出しなければなりません。 さて、県議会の米軍基地関係特別委員会が11月9日に開かれ、翌日の沖縄の新聞は「(県議会は)政府への環境影響評価書提出の断念を求める意見書案を決めた」と報じました。驚くことに、議決されるのは11月14日であるにかかわらず「全会一致で採択される見通し」となっておりました。 とても異様に感じたのは、一面トップを飾った新聞の見出し。大きく「評価書断念県議会要求へ」という文字でした。 11月14日に開かれる臨時県議会に提案される議案の採択がなぜ事前に分かり、しかも全会一致などと報じることができるのでしょうか。大変不思議でなりませんでした。 これが本当に民主主義なのだろうか?私には、今では名護市民の半数以上が「辺野古移設容認」だという肌感覚があります。 それなのに、県議会議員は全員が(民意を代表して)評価書提出に反対するといいます。 私には、この裏には「県議に対するマスコミの脅しがあるのではないか?」という疑念が湧いて仕方ありませんでした。 報道関係者は「報道」を通して「公共の福祉に資する」と言いますが、本当にそれが「公共の福祉」なのでしょうか? 「全会一致とあらかじめ報道したのだから、反対票を投じれば次期選挙で落選するぞ、新聞の読者が監視しているぞ」という脅しなのではないでしょうか。沖縄のマスコミは「民意」よりも上位に立つ「第一権力」と化しています。 そのように思っていた矢先の11月29日、「田中防衛局長更迭」という号外新聞(『琉球新報』)が配布されたのです。東日本大震災が起きた翌日でさえ、号外は発行していないと聞いています。 事の発端は、11月28日夜の田中聡前局長と記者団との懇親会でした。田中前局長は、完全にオフレコという約束で、10社の報道記者と居酒屋で飲んでいました。 酒も進んだ前局長は、記者からの「評価書提出はいつごろでしょうか」という問いに、「(女性を)犯す前に犯しますよと言うか」と暴言を吐いたと報道されています。 しかし、防衛省が公表した内容によりますと、評価書をいつ提出するのか、に関する話題の際、前局長は「私から『やる』前に『やる』とか、いつ頃『やる』とかいうことは言えない」「(略)乱暴にすれば、男女関係で言えば、犯罪になりますから」という趣旨の発言をした記憶があるとしています。 更に、「少なくとも『犯す』というような言葉を使った記憶はない」とのことです。 前局長の発言を擁護する気はありませんが、完全なオフレコの約束であるに関わらず、お互いの会話が聞き取れなくなることもあり得る、にぎやかな居酒屋という場所で、しかも酒に酔ってなされた発言を、号外を配布するほどの大事件として報道しているのです。 その記者はその場では田中局長に抗議をせず、こっそり帰って沖縄紙にとって都合良い形で記事にする。はっきり言って、これは道義にもとる行為であります。 さらに、県議会が全会一致で評価書提出断念を政府に要求したことを「県民の総意」だとして、女性や県民を侮辱した役人が評価書を無理やり提出しようとしていたことを批判し、「民主主義が泣いている」として、自作自演で「民意の代表」たる立場を騙っております。 田中前局長は米軍基地問題に精通し、普天間移設をめぐる環境影響評価(アセスメント)の評価書提出に向け、準備作業を指揮していた中心人物です。同氏の更迭により、辺野古移設が更に遅れる可能性が出て来ました。 今は、沖縄のローカルメディアに振り回されている時ではありません。沖縄の新聞社が「日本やアジアの安全保障」の責任を取れるはずがありません。 米豪両政府は、米海兵隊をオーストラリア北部に駐留させることで合意しました。来年半ばをめどに200~250人の海兵隊員を配置し、将来的には2500人規模まで拡大する予定です。 この件について、クリントン大統領時代に日米同盟の大切さを強調し、アジアの安全保障体制に深く関与したジョセフ・ナイ元国防次官補は、県民が受け入れがたい現行の移設計画ではなく、制約の多い沖縄と比べ訓練や演習が自由にできる豪州に海兵隊が移ることは「賢明なことだ」とエッセーを寄稿しています。 この意見は、「国の安全保障政策は政府の専権事項である」という認識すらない日本政府に対する「あきらめ」とも取れます。 沖縄県という一自治体が、アジアの平和に関することまでを決定する権限を有しないのは当然のことです。 その意味で、辺野古移設の環境影響評価書の提出という政府方針は、国民を守る責務の上で決定されることでなければなりません。 野田首相は「沖縄県民を守るためにこその辺野古移設」という当たり前のことを粛々と推し進めて頂きたいと思います。(文責・沖縄県本部副代表 金城タツロー) 普天間基地移設問題~解決への道(4)保守化する沖縄県民 2011.11.29 今回、様々な混乱はあったものの、沖縄の石垣市、与那国町で中学校の公民教科書で育鵬社が採用されることになりました。これは、尖閣諸島事件に危機感を持つ石垣市民の声を正しく反映した採択だったと言えます。 例えば、尖閣諸島などの領土問題の記述が充実している育鵬社教科書の選定について、八重山漁業の組合長の話として「尖閣の問題を、中学生にもしっかり教えてほしい。漁業関係者にとってはありがたい話」という石垣市民の喜びの声を掲載しています。(8/24『八重山日報』) また従来、自衛艦の石垣島入港時には、反対派の抗議集会のみ開かれていましたが、それを上回る賛成派が歓迎行動を行い、「自衛隊の皆さま、震災復興活動ありがとう」などと書かれた横断幕等も見られるようになりました。(7/6『八重山日報』) こうした保守化傾向に対して、本土の左翼マスコミも、(従来、左翼が支配して来た沖縄では)「これまでは考えられなかった。明らかに一線を超えてしまっている」と表現しています。(『週刊金曜日』11/25号) このように、尖閣諸島中国漁船衝突事件を契機に、沖縄県民の保守回帰が進む中、去る10月26日、普天間飛行場の辺野古移設を容認する名護市議などが主催する北部振興推進・名護大会が開催されました。 そして、堰を切ったかのように、名護市民が本音を語り始めました。 「政治家は普天間移設と北部振興策はリンクしていないというが、真っ赤な嘘だ!」と名護漁協組合長が発言すると、客席から「そうだ、そうだ!」という声が上がりました。そして、雪崩を打って次々とリンク論が飛び出しました。 島袋前名護市長も「以前からリンクしていると感じていた。国や県が言わないので、その圧力で言い辛かった……基地問題、経済問題はリンクするということを確認しようではありませんか」と訴えられました。 昨年1月の名護市長選挙。幸福実現党は移設容認派の島袋前市長の応援のため、毎日街宣して参りました。 参議院選挙でも、沖縄県知事選挙でも名護の町に立ち、「名護の皆さん、辺野古移設をどうか受け入れてください」と訴え続けました。 昨年のあの日々のことを思い出しながら名護市民会館に駆けつけたとき、立錐の余地も無いほど住民がつめかけ、弁士の挨拶に食い入るように耳を傾けていました。 ある議員は勇気をもって「辺野古移設がベターである」と発言しました。 私は「これこそ誠の民意」という感を強くしました。沢山の方々から応援を頂いて県知事選を戦ったことは大きな効果があったと実感致しました。 沖縄、日本、アジアの平和そして沖縄の経済振興、更に基地負担の軽減という方程式の解はすなわち「辺野古移設」しかないことは明らかです。そうでなければ、「普天間の固定化」という最悪の事態が待っているのみです。 だからこそ、その勇気ある発言に敬意を表したい、そしてまた心から応援したいと思いました。 昨年の名護市長選挙においては、確かに県外・国外を強く掲げた稲嶺氏が勝利しました。しかし、移設容認を打ち出していた島袋氏とは僅差であったこともまた事実です。 アジア情勢を知るにつれ、普天間飛行場の辺野古移設を願う県民は確実に増えております。 幸福実現党の地道な啓蒙活動もその効果の一旦を担わせていただいている、と自負しております。 今、まさに多くの沖縄県民が、「過去」と「県内」だけを見る視点を乗り越え、現在進行形でアジアで起きていることを注視し始めたからだと考えております。(つづく) (文責・沖縄県本部副代表 金城タツロー) ※金城タツロー氏の次回原稿「普天間基地移設問題~解決への道(5)」は、12月5日(月)に掲載させて頂きます。 普天間基地移設問題~解決への道(3)普天間飛沖縄振興予算と普天間問題 2011.11.28 これまで、「普天間飛行場移設に向けての経緯」、「普天間移設が進まない理由」と普天間基地問題の歴史と経緯について述べて参りましたが、2006年5月1日時点で既に、米軍再編最終報告において2014年までに普天間基地の代替施設を建設し、辺野古へ移設するというロードマップが決まっていました。 この合意に至るまでに、日米両国、そして沖縄において、一体どれだけの人々が、どれほどの時間をかけて苦労をして来られたことでしょうか。 しかし、鳩山元首相の「政権交代」したいがための「最低でも県外」という一言で全てがひっくり返り、現在まで沖縄や日米関係の混乱が続いています。 今年10月26日、玄葉外相は衆院外務委員会で、鳩山元首相が政権交代前から県外発言をしていたことについて「誤りだった。鳩山政権ができたら恐らくこの問題で終わるんじゃないかと思った」と述べています。 しかし、野田首相は翌日の夜、鳩山元首相と東京都内で会食し、玄葉外相が「誤りだった」と答弁したことについて、「間違いだ。申し訳ない」と鳩山氏に謝罪しました。 鳩山氏が間違っていたことは誰の目からも明らかです。野田首相自身、辺野古への県内移設を進めようとしているのに、なぜ、鳩山氏に謝罪したのでしょうか? 野田首相はあの言葉に振り回された沖縄県民のことを本当に考えているのでしょうか? 野田首相は、薔薇色の未来を夢見させられた県民への心からの謝罪、そして「日米合意」に回帰した理由を、沖縄県民にしっかりと説明すべきです。 そして、総理大臣として「国民の生命・安全・財産を守る」ことを真摯に考えているならば、未だに「県外移設」を主張し続けている民主党沖縄県連を厳しく指導すべきです。 それができないならば、即刻、衆議院を解散し、一貫性のある政策に練り直し、国民の信を問い直すべきです。 政府は名護市を含めた「北部振興策」の補助金として2000年~2009年で約1000億円支出しています。 それは誰もが、普天間飛行場の移設を受け入れる用意のある地区への配慮だと思うでしょう。 しかし、沖縄では、責任ある立場の人は、誰も移設と補助金がリンクしているということを語ろうとしませんでした。 1972年に本土に復帰してより、10年単位で沖縄県の振興予算が措置されてきました。今年は四度目の振興計画の最終年です。 復帰までは米国の施政権下にありましたので、当然、本土との格差が生じました。その「本土との格差是正」の大義名分のもとに、補助金を措置してもらっていたのです。 しかし、近年はインフラ整備も進み、沖縄県は本土の平均的インフラに対してもまったく遜色なく、むしろ本土と逆転したかの感があります。 本年6月、知人の車で東日本大震災の被災地を見て周りましたが、津波被害の惨状と、復旧のために莫大な資金が必要であることを痛切に感じました。 沖縄に帰ってみて、県民の一人として、「今まで政府が沖縄のために投下して下さった血税を無駄にしてはならない」と強く思いました。 沖縄県民には「福を惜しむ気持ち」が必要です。 しかし、沖縄県の仲井真知事は政府に対し、今年度予算で約2300億円となっている沖縄関係振興費を3000億円に増額した上で、「全額一括交付金化」し、10年間予算確保できるよう要求しています。 仲井真氏は国民の血税を何だと思っているのでしょうか? 地域主権のさきがけとして、沖縄がまず自由に使える交付金を活用し、かつ経済自立を果たすという趣旨だそうですが、「普天間飛行場の辺野古移設とはリンクしていない」という全く意味不明なスタンスをとっています。 現に、今年1月、北沢前防衛省が沖縄入りして「県民が目を見張るような振興策を提示したい」と知事に伝えた際には、基地と振興策のリンク論ととらえ、新聞が騒ぎ立てました。 しかし、沖縄のメディアが伝えていることがまったくの出鱈目であることくらい、小学生でも知っています。(つづく) (文責・沖縄県本部副代表 金城タツロー) 普天間基地移設問題~解決への道(2)普天間移設が進まない理由 2011.11.22 昨日は普天間飛行場移設に向けての経緯について述べましたが、本日は、「なぜ、普天間飛行場移設が一歩も進まなかったのか」について考えてみたいと思います。 まず、第一は「民意を無視した日米合意」というマスコミによる批判です。 普天間飛行場の移設案の日米合意のプロセスにおいて「民意を無視した頭越しの合意」などという批判がマスコミ報道で繰り返されます。 「何をもって民意とするか」というと、マスコミが最大の拠り所とするのは市長選、知事選の選挙公約です。 私も選挙に出馬した際に、地元新聞社から普天間移設問題に関する選挙公約を問われましたが、「県内移設」と応えるだけでは済まず、必ず「現行案(V字型)」か、「浅瀬案」か、「沖合い案」かなどと聞いてきます。 「現実に脅威と化している対中国抑止を実効ならしめるために早期に移設を実現できればよい」というのが私の考えであるのですが、マスコミは、選挙で公約した時と工法が変わっただけで「民意に反している」と猛批判します。 住宅の上空飛行を避け、環境を破壊しないようにと配慮するため、時々刻々に最善の移設方法が検討されるのですから、マスコミに固められてしまった杓子定規な選挙公約通りにはいかなくなるのは当然です。 第二は、反対運動に対する政府の及び腰です。 1996年に日米両政府が普天間基地返還をうたったSACO合意後に、当時の大田知事は「沖縄の求めてきたのは単純返還だ。新たな代替基地の建設が付いてくるのは承諾できない」と合意以前に戻すような発言をし、地元の反対運動がそれを後押ししました。 その後、保守の稲嶺知事が当選しましたが、積極的に取り組むことがなく四年の任期が過ぎました。 計画が頓挫する危機感を感じた政府は稲嶺知事の再選後、2004年に辺野古沖のボーリング地質調査を始めますが、反対住民の座り込みなどで延期される中、同年8月、沖縄国際大学に米軍ヘリが墜落しました。 更に反対派が勢い付いて、9月に作業を再開するも、反対派の阻止に合い、一本のボーリングも設置されませんでした。 これは工事にとりかかる前提の調査ですら、反対派の妨害で実行不可能な状況になることを示しています。わずか数名の反対でも安保政策を妨害できるということなのです。 第三は、国民を騙してでも集票を優先しようとする政治家の言動です。 多くの皆様は鳩山元首相の2009年発言「最低でも県外」発言を覚えておられることでしょう。この言葉が沖縄を大混乱させることになります。 私は2009年の衆議院選挙に名護市を含む沖縄第3選挙区で出馬し、誰もが真っ先に聞いてくる「普天間問題」について「一切ぶれずに現行案。辺野古移設」という返答一本、街頭でも有権者に訴え続けて参りました。 その熱い夏。鳩山氏は私と同じ選挙区の民主党候補者の応援演説で駆けつけた際、「民主党が政権を担ったならば最低でも県外」と公言したのです。 自民党への不信と民主党のバラマキ政策への期待。その中で「本気でアメリカ政府と戦ってくれる政治家の出現」と歓喜する県民はたくさんおられました。 私が有権者にご意見を聞いて回っていたときは、民主党への期待は最高潮でした。長年自民党支持者だったある方は、「今まで自民党を応援してきたがもうやめた。鳩山さんはかならず県外を実行してくれるだろう。それが実現したならば鳩山さんはノーベル平和賞をとる」と期待値がものすごく高いのです。 私は、「お言葉ですが、どの政党が政権を握ろうとも、必ず日米合意に戻らざるを得なくなると思います。でなければ、日米安保条約そのものの危機になるでしょう」とお応えしましたが、逆に説教をされてしまいました。(つづく) (文責・沖縄県本部副代表 金城タツロー) ※金城タツロー氏の次回原稿「普天間基地移設問題~解決への道(3)」は、11月28日(月)に掲載させて頂きます。 普天間基地移設問題~解決への道(1)普天間飛行場移設に向けての経緯 2011.11.21 野田首相は12日、オバマ米大統領と会談し、米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設に向けた環境影響評価書を年内に提出することを報告しました。 着々と移設に向けて手を打とうとする政府に対して、14日、政府が環境影響評価書を断念するよう求める意見書を沖縄県議会が全会一致で可決するなど、先行きを危ぶむ声が上がっています。 しかし、10月26日に、名護市内で住民2,200人余りが参加した「北部振興推進・名護大会」では、「日米合意を踏まえた普天間飛行場移設の早期実現」など7項目が決議されました。 移設賛成派住民がこうした大会を開催して声を上げるのは初めてのことで、普天間基地移設に向けて、沖縄県民の間にも「着実な変化」が起こりつつあります。(産経10/27「普天間移設 早期実現へ決議 声を上げた賛成派」) ⇒http://sankei.jp.msn.com/politics/news/111027/plc11102722520010-n1.htm そこで、普天間飛行場移設問題の経緯と沖縄県民の意識の変化、そして解決への道について、5回に分けてレポート致します。 (1)普天間飛行場移設に向けての経緯 普天間飛行場の移設問題が本格的に浮上したのは、今から16年前のことです。1995年に米兵による少女暴行事件が起きました。 その上、起訴に至らなければ関与が明らかでも米兵の身柄を日本側に引き渡すことができないという日米地位協定の問題もあり、「米兵の暴挙はこれ以上許さない」と県民の怒りに火がついて大規模な県民総決起大会が催されました。 当時、近所の女子高生が「もう我慢がならない。今こそアメリカを追い出すんだ」といきりたっていたのを覚えています。 大会を契機として、米軍基地の整理・縮小と日米地位協定の改定を強く求める訴えが強くなり、当時の大田知事も政府に対しその実行を強く迫りました。 その後、1996年に日本国政府および米国政府によって沖縄に関する日米行動委員会(SACO)が設置され、その最終報告を受けて沖縄県民に配慮した日米合意がもたらされました。 その中に盛り込まれた重要な一文が「今後5ないし7年以内に、十分な代替施設が完成し運用可能になった後、普天間飛行場を返還する」というものでした。更に嘉手納基地以南の大半の基地を返還するということも確認されました。 当時、普天間基地の返還業務を担当した政治家や官僚の方々は「先の戦争から復帰後も含めて、沖縄に多大な迷惑をかけてきた。だから、沖縄の労苦に報いなければいけない、負担軽減は絶対しないといけない」という気持ちをもって誠実に取り組んでおられたことと思います。 翌97年12月に基地受け入れの是非を問う名護市民投票が行われました。投票結果は僅差の52.8%が受け入れ反対。 しかし、比嘉名護市長が海上基地受け入れと辞任を表明、首相官邸ではその報告を受けた橋本首相が「ありがとう」と男泣きしたそうです。 その後の市長選挙で移設容認派の岸本氏が初当選を果たしましたが、病気のため、任期を全うすることができませんでした。 しかし、岸本市長も病気が重くなる中「次の市長選までに、人生最期の機会として普天間問題の後始末をしなければならない」という思いで取り組んでおられたそうです。 岸本氏は翌98年病気のため死去されますが、次期市長選で島袋氏が当選。後継の島袋市長は岸本氏の死去11日後に、防衛庁と滑走路二本のV字形案で基本合意しています。つまり、名護市は3期続けて移設容認派市長を誕生させたのです。 しかし、結果的に15年間、普天間飛行場は1センチも動くことはありませんでした。(つづく) (文責・沖縄県本部副代表 金城タツロー) すべてを表示する « Previous 1 2