Home/ 池田健一郎 池田健一郎 執筆者:池田健一郎 島根県本部副代表 「宗教立国」を目指す幸福実現党【後編】 2015.07.04 文/幸福実現党・島根県本部副代表 池田健一郎 前編で、(1)20条1項後段に「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、または政治上の権力を行使してはならない」について考察を加えました。今回は、日本国憲法【(2)20条3項】と【 (3)89条】について考察を加えて参ります。 ◆日本国憲法20条3項について (2)「国およびその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」という規定についてです。 公立の高校などでは倫理の時間があり、キリスト教、イスラム教、仏教のいわゆる世界三大宗教や、ギリシャ哲学などの概要を学ぶ時間があります。 つまり「公立学校が一つの宗教だけを教え込んだり、儀式をしたりするのはよくない」という、ただそれだけの意味です。 これに対して、私立学校はそもそも「国およびその機関」ではありませんので、宗教教育を自由に行えることは言うまでもありません。 ◆日本国憲法89条について (3)公金や公の財産は「宗教上の組織もしくは団体の使用、便益もしくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育もしくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない」と規定されています。 たとえば、政府は様々な事業に対して補助金を出すことがあります。しかし、政府はただで補助金を出してくれるわけではありません。 「補助金を出すかわりに、ああしろ、こうしろ、定期的にこれこれの報告をしろ」等々、様々な条件をつけてくるのが普通です。実際に補助金を受けたことのある方はお分かりになるのではないかと思います。 もし、宗教団体にこれが適用されたらどうなるでしょうか?政府から「あなたの宗教の教えは、この部分が問題だから変えなさい、でなければ補助金は出さないよ」ということになりかねません。こんなことがまかり通ったら大問題です。 以上のことをまとめて言うならば「私的な事業への不当な公権力の支配が及ぶことを防止するための規定である」ということになります。 つまり、「宗教団体に公金を出すと、宗教団体の助けになるどころか、かえってその独立性が失われて、宗教団体が国家のいいなりになってしまう」、それを防止するための規定なのです。 ですからこれも「宗教の側から」「政治に対して」関わってはいけないということとは無関係です。「政治の側から」「宗教に対して」公金を出してはいけない、というだけの意味です。 以上、日本における政教分離の根拠は煎じ詰めればこの三つしかありません。 結局「政教分離」とは、「一つの宗教が国家権力を使って他の宗教を管理したり弾圧したりしてはならない、」という意味であり、また「宗教は政治に参加してはいけない」という意味ではないということです。 他にあえて挙げるとするなら、マスコミなどによって作られている「空気」、これだけです。 以上私が述べてきたことが、少しでもこの「宗教が政治に介入するのはよくない」という「空気」に「水を差す」ことができれば幸いです。 今後も幸福実現党は、日本国民の皆様の幸福を実現する政治を目指して頑張って参ります! 「宗教立国」を目指す幸福実現党【前編】 2015.07.03 文/幸福実現党・島根県本部副代表 池田健一郎 ◆政教分離をどう考えるべきか 私たち幸福実現党は、大きな理念の柱として「宗教立国」を掲げて活動しております。 しかしながら、わが日本国においては「戦前、国家神道によって戦争が引き起こされた」などの誤解に基づき、「宗教が政治に介入するのはよくない」という「空気」が存在します。 私自身、活動の途上において、支持者の方から「宗教が政治に関わるのはなんとなく良くない感じがする」というお言葉を頂くこともあり、誤った「政教分離」の概念が「空気」のごとく蔓延しているように感じます。 今回は、「宗教立国」の前提として「政教分離をどう考えるべきか」についてお話したいと思います。 ◆「政教分離」の憲法上の根拠は三つ わが国では、「政教分離」という概念は、戦後にできたものです。GHQが「神道が国家主義や軍国主義の精神的支柱となった」と判断したため、現在の日本国憲法では以下のように規定しています。 (1) 20条1項後段に「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、または政治上の権力を行使してはならない」 (2) 20条3項に「国およびその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」 (3) 89条において、公金や公の財産は「宗教上の組織もしくは団体の使用、便益もしくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育もしくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない」 ◆日本国憲法20条1項後段について まず(1)の「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、または政治上の権力を行使してはならない」という規定に関してですが、おそらくこれが一番、皆様が引っかかりを感じる規定なのではないかと思います。 「宗教団体が政治上の権力を行使しちゃいけない、って書いてあるじゃないか」というわけです。 しかしながら、もともとこの規定は、戦前に神道が国から特権を受け優遇され、キリスト教や大本教など、多くの宗教が弾圧されたことを受けてつくられたものです。 つまりこれは「一つの宗教が国家権力を使って他の宗教を弾圧してはならない」という意味の規定なのです。 ◆参政権は「人権」である この(1)については、もう一つ考えるべきことがあります。 「政教分離」を「宗教が政治に参加してはいけない」と曲解している方は、とても重大なことを忘れています。 現在の日本国憲法においては、国民に「参政権」という権利が認められています。これは「選挙で一人一票を投じる権利」ですが、しかし「参政権」とは、これだけではありません。 「選挙で一票を投じる権利」だけでなく「自らが議員になるべく、選挙に立候補する権利」、これも「参政権」、つまり「政治に参加する権利」として保障されています。この二つとも「参政権」、つまり「人権」なのです。 ◆宗教団体が政治に参加することは正当な権利 ところで、わが国には様々な団体が存在します。経団連、医師会、日教組、自治労、共産党など。特定の考えを持ち、その実現のために活動している団体です。 それぞれの団体が、選挙のために候補者を擁立し、選挙戦を戦っていますが、それについて文句を言う方はいません。 そして、宗教団体も「特定の考えを持ち、その実現のために活動している団体」であることに変わりはありません。宗教団体が選挙のために候補者を擁立し、選挙戦を戦うことに、何か問題があるのでしょうか? あるとすればその根拠は?「経団連や共産党ならいいが、宗教団体は駄目だ」という理由が、どこにあるのでしょうか? 「ある」という方の根拠はおそらく「宗教は神を信じているから」という理由なのではないかと推測します。 「神を信じているから」というただひとつの理由で「宗教は政治に関わってはいけない」とするならば、神を信じる人間には「自らが議員になるべく、選挙に立候補する権利」がないということになります。 もっとはっきり言うと「宗教は政治に関わるな」と主張する人は「神を信じる者には人権が無い」と主張していることになります。 「神を信じる者に人権が無い」国はいくつかあります。中国や北朝鮮がその例です。 「宗教は政治に関わるな」と主張する方は、中国や北朝鮮が理想の国なのでしょうか。冷静に考えれば、そんなことは無い、ということがお分かりいただけると思います。 結論として、日本国憲法における政教分離の根拠、(1)「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、または政治上の権力を行使してはならない」という規定は、「宗教団体が政治に関わってはいけない」という理由にはならないことがお分かりいただけたのではないかと思います。 次回、日本国憲法【(2)20条3項】と【 (3)89条】について考えてみたいと思います。 (つづく) 「はだしのゲン」騒動を振り返る(後編) 2014.12.16 文/幸福実現党・島根県本部副代表 池田健一郎 ◆子どもに「誤った歴史観」を植え付ける 前篇で日本図書館協会が2013年8月に「自主的な読書活動」を尊重する観点から、利用制限の再考する内容の要望書を市教委に送付し、結局、同書籍の利用制限が撤回されるに至った問題点を指摘しました。 さらに別の面から検証してみましょう。 この利用制限のもととなった陳情では「子どもに誤った歴史観を植え付ける」という点も理由として挙がっていました。 この「誤った歴史観」かどうかという判断は、本来なら非常に難しいのですが、今回の「はだしのゲン」に限って言えば、この判断は簡単です。なぜなら、同書籍中で、天皇陛下を「戦争犯罪者」であると断言するシーンがあるからです。 また、日本国憲法第99条においては、公務員が憲法を尊重、擁護する義務を負うと明確に規定されています。 この二つの条文を合わせて考えると、憲法を守るべき公務員たる公立小中学校の職員が「天皇は戦争犯罪者だ」などという、憲法1条の趣旨に明確に反することを主張している内容の「はだしのゲン」という書籍を公立の小中学校の図書館に置くことはできない、という結論が導かれます。 国家の最高規範たる憲法にその根拠があるのですから、自殺のマニュアル書であるとか、わいせつな書籍を排除する以上に、その理由は明確です。 ◆「検閲」という批判にも当たらない また、前編で述べた (3)アメリカ合衆国の図書館協会の基準を例として挙げ、今回の「はだしのゲン」利用制限を「目立たない形の検閲」とまで言う、市教委の利用制限に対する批判も当たりません。 最高裁判所の判例によれば、検閲とは「行政権が主体となって、出版物等の表現物の内容を事前に審査し、不適当と認めるものの発表を禁止すること」と定義されています。 皆様ご存じの通り「はだしのゲン」は発表から何十年も経過している書籍であるので「事前に審査し」の要件にまず当てはまりません。 また、利用制限自体、「公立の」「小中学校の図書館」に限定されたものであり、私立学校の図書館に置くことを制限するものではありません。また、普通の町立、私立、県立図書館でも閲覧でき、書店での購入も可能ですから「発表の禁止」にも当たらないことになります。 つまり、(3)「目立たない形の検閲である」という批判も、日本においては当たらないこととなります。 ◆国益を考えた「歴史教育」を 協会の要望書の後の内容についても、以上の理由付けで反論が可能です。同要望書にある「学校図書館の自由な利用が歪む」という心配は杞憂です。また、憲法の趣旨に反する内容の書籍であるため「公の秩序」に反するという理由付けも可能です。 念のため繰り返しますが、私立学校や一般の書店、また、町立、市立、県立の図書館などでは置くことも閲覧することも自由であり、今回のような限定された形での利用制限に問題はないと考えます。 税金で運営されている公立の小中学校において「天皇は戦争犯罪者だ」などという書籍を読んで、反日的な歴史観をもった子供たちが育つというのは、笑えない冗談です。 私立学校ならば、どんな歴史観であっても教えることは自由だと思います。しかし、公立の義務教育においては、行政はもう少し、国益を考えて、歴史教育の内容決定において主体性を持つべきなのではないでしょうか。 「はだしのゲン」騒動を振り返る(前篇) 2014.12.15 文/幸福実現党・島根県本部副代表 池田健一郎 少々古い話題で恐縮なのですが、私の地元の島根県松江市の話題でもあるという点、および、ある程度時間が経過した方が冷静な考察に役立つ、という2点の理由から、今回はこの話題について私の思うところを述べさせていただきたいと思います。 ◆「はだしのゲン」閲覧制限問題 この「はだしのゲン」閲覧制限問題は、松江市教育委員会(以下、市教委と表記)が、同書籍の 利用制限を市立小中学校に求め、それに対して日本図書館協会(以下、協会と表記)が2013年8月に「自主的な読書活動」を尊重する観点から、利用制限の再考する内容の要望書を市教委に送付し、結局、同書籍の利用制限が撤回されるに至った、というものです。 この問題について、当時の反応は大きく分けて二つありました。一つは「反日的な漫画なのだから、利用制限は当然だ」という意見、もう一つは「表現の自由や知る権利の侵害となるので、利用制限は不当だ」という意見です。 結局、利用制限は撤回されたので、市教委は後者の意見を採用した、ということになります。 ◆日本図書館協会の要望書の疑問点 私も、協会の要望書を読んでみました。すると、疑問点が複数出てきたのです。 まず、同要望書は(1)「図書館の自由に関する宣言」から「ある種の資料を特別扱いしたり、書架から撤去したりはしない」と明記されている点を挙げていました。 また、(2)国際図書館連盟の取り決めであるとして「 図書館はすべて利用者に資料と施設の平等なアクセスを保障しなければならず、年齢等の理由による差別があってはならない 」という点を挙げています。 さらに(3)アメリカ合衆国の図書館協会の基準を例として挙げ、今回の「はだしのゲン」利用制限を「目立たない形の検閲」とまで言い、市教委の利用制限を厳しく批判しています。 要望書の内容はまだ続きますが、ひとまず、以上の(1)~(3)について論じようと思います。この時点ですでに、協会と市教委の間の認識のずれが生じてしまっているからです。 ◆公立学校の図書館が本の選定に慎重になるのは当然 その「ずれ」とは、協会が「公立の小中学校の図書館の特殊性を無視している」という点です。 例えば、学校の図書館ではない、県立図書館とか、市立、町立の図書館の場合、利用者はすべての住民となり、子供からお年寄りまで、色々な方が本を読む場所となります。 それに対して、小中学校の図書館の場合、利用者のほぼ100%が、その学校に通っている児童になります。 小学生や中学生は、一般に成長の途上にあり、受け取る情報に対する批判能力が十分育っているとは言えない面があります。 そういう理由から、過度に政治的な書籍であるとか、過酷な描写がなされている書籍であるとか、危険な化学薬品の製法であるとか、そういった書籍を置くべきではない、という考慮が、普通の図書館よりも大きく働く、という特殊性があります。 普通の図書館と違って、(私立ではなく)公立の小中学校の図書館に本を置くということは「小中学校に通う児童生徒がその本を読むことを行政が推奨する」いう意味合いが含まれるのです。 だから、公立学校の図書館が置くべき本の選定に慎重になるのは当然です。この点、上で述べた(1)や(2)とは事情が異なります。 大人が読んで大丈夫な本でも、それをそのまま児童生徒に読ませるわけにはいかない場合もあるわけです。 また、最高裁判所の判例においても「義務教育においては、国は必要かつ相当な範囲で教育内容を決定する権利を有する(旭川学テ事件判決)」とあり、このことからも、教育委員会が公立の小中学校に置くべき本をある程度決定できるということが根拠付けられます。 市教委は「過激な描写が子どもの発達上悪影響である」という理由により利用制限を行っています。この理由付けも妥当だと私は思います。 後編では、さらに別の角度から検証を加えて参ります。 (つづく) すべてを表示する