このエントリーをはてなブックマークに追加

賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ――愚かな政治家は大衆に阿る(1)

文/幸福実現党・京都府本部副代表 植松みつお

◆極東の火薬庫、「朝鮮半島」の歴史の趨勢に学ぶべき時

ここ二千年余りの極東の歴史を俯瞰して観るならば、朝鮮半島の混乱は日本にも影響が出て、互いが緊張状態となり、その当時の体制に揺らぎが出て、時として戦闘行為や、場合によっては国家が滅ぶという事態が過去六度ありました。

今回、4回に分けて「朝鮮半島」の歴史から教訓を学んでみたいと思います。

その教訓を掴んでおくことが転ばぬ先の杖となり、プロシアの名宰相ビスマルクの至言である「賢者は歴史に学ぶ」ことになると思います。

そして、結論を先に申せば、過去の歴史に学び、為政者たちがその教訓を生かし、しっかりとしたビジョンを共有し、協調・協力し合ってリーダーシップを振るい、互いが自国主義に陥ることなく、世界の平和と安定、更に自由と繁栄を守り抜く気概を態度で示すことが大事です。

特に、先進国のリーダーは発展途上国の繁栄にも寄与する国家経営モデルを開発し、共有させることが、地球世紀のより良き未来を構築となればいいと考えるからです。

◆過去二千年の朝鮮半島有事の歴史を振り返る

では、二千年前からの史実に遡って考えてみましょう。

(1)3世紀、三韓征伐の時代

まず、一度目は3世紀頃の三韓征伐に遡ります。

その主役でもある神功皇后(息長帯比売命)は、新羅の王家の末裔(『古事記』の応神天応記によると、母方の系譜が新羅国の王子、天之日矛)であり、滋賀の北近江坂田にご生家がありました。

その後、仲哀天皇に嫁ぎ、(この時点で、新羅の王家の末裔と天皇家が繋がっている事実が分かります)滋賀の穴太(高穴穂)に住まわれました。

朝鮮半島の有事により、神功皇后が新羅を攻めたことで、新羅の方々は、そのご威光に打たれ(実際は、王家の末裔によるお郷帰りと言える)、ひれ伏したとも伝わっています。

その後、三韓(馬韓こと後の百済、弁韓こと後の任那・加羅、辰韓こと後の新羅)からの朝貢を受けます。

また、三韓征伐をされた際、応神天皇を身籠もっておられ、そのお子が仁徳天皇です。あの巨大な仁徳天皇陵を見れば、いかに徳の高い天皇であったかが分かります。

こうして日本の天皇中心の徳治政治が確立していくことになります。

ここでの教訓は、日本と朝鮮半島の南部とは国体的に深い関係があったということです。朝貢を受けていたのは日本の皇室であったことを見れば、立場的に日本の方が上位にあったのは事実です。

(2)7世紀、白村江の戦い

次に、2度目が飛鳥時代です。

日本・百済連合軍VS唐・新羅の連合軍という図式のなか、李舜臣という英雄の登場により、日本・百済連合軍が白村江の戦いに敗れます。

その後、朝鮮半島は新羅によって統一されますが、戦いに敗れた日本は、防衛上、天智天皇のもと、大津京に遷都します。

その後、壬申の乱を経て、主導権を握った天武・持統天皇の体制下、再びの奈良・藤原京への遷都を行い、日本は本格的な律令国家として固まってゆくのです。

ここでの教訓は、戦いに敗れることで、国家としての弱点が明らかになったということです。

それは、大東亜戦争も同様ですが、国家経営の基盤が脆弱だったことです。それを敵国だった唐に遣唐使を出して学び、都のインフラや国防体制を固めます。

その点で、敗戦は国家としては痛手ですが、イノベーションの機会となり、新たな人材や諸制度を生む機会となることもあり、要は、勝者から何を学ぶかという視点が大事だと思います。

(つづく)

植松満雄

執筆者:植松満雄

京都府本部副代表

page top