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日米共に、正しい政教一致政策により、現代の鎮護国家を

文/HS政経塾2期生 小松 由佳

◆国家による宗教活動の必要性

安倍首相の靖国参拝への中韓の非難が続き、国会でも野党からの批判が予想されますが、これは国家としての「信教の自由」への脅威だと言えます。

この問題の原因は、誤った歴史認識と、「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」という、憲法20条の厳格な政教分離原則です。

01年に小泉元首相が参拝した際も、「精神的苦痛を受けた」などと政教分離を盾に8件の訴訟が起きました。最高裁は、「人が神社に参拝する行為自体は、他人の信仰生活に対して圧迫、干渉を加えるような性質のものではない」として退けましたが、賢明な判断でした。

個人の信教の自由を濫用して、他者の信教の自由を侵害してはなりませんし、そもそも国家の宗教活動を禁止していること自体、異常です。確かに近代国家は、国家から個人の権利を守ることを目指してきましたが、個人と国家は必ずしも敵対するものではありません。

経済や防衛の分野では、個人に財産権や正当防衛権があると共に、国家も経済・防衛政策を行います。宗教分野でも、個人の信教の自由を保障しつつ、国家が積極的になすべき政策があるはずです。

◆政教分離で試行錯誤してきた米国

特に今回、米国政府からも参拝への批判がありましたが、米国自身、政教分離について試行錯誤が続いています。

米国がキリスト教精神に基づいて建国されたことは明らかですが、建国の父たちには宗教弾圧への警戒心もあり、1791年、合衆国憲法修正第1条として、「合衆国議会は、国教を樹立することに関する法律、または宗教上の行為を自由に行うことを禁止する法律を制定してはならない」と定められました。

それでも、この条項は「キリスト教を全体として議会の保護から取り除くことを目的としたものではない」との解釈が通説でしたが、F・ルーズベルトやトルーマンの民主党政権下で、保守派の裁判官が退職すると、多くの厳格な政教分離主義者が判事に指名されました。

そして47年、修正第1条の適用が州にも拡大され、「修正第1条は教会と国家の間に分離の壁を打ち立てたのである。その壁は高く、しかも堅固に保たれなければならない。我々は僅かな裂け目すら黙認することは許されない」という「分離の壁原則」が示されました。

これ以降、公立学校での宗教の授業、祈祷文の斉唱、聖書朗読、都庁舎内での宗教画展示などへの違憲判決が続きました。これに対しては、「アメリカ人の伝統を根本的に破壊する」との批判も相次ぎ、議員による憲法改正への動きも活発化しました。

80年代になって共和党政権で任命された裁判官が増えると、合憲判断が増え、落ち着きを取り戻しました。厳格な政教分離は、むしろ国民の信教の自由を脅かしてきたのです。

◆無理に政教分離を取り入れた日本

しかし、神仏習合の政教一致が伝統であった日本も、明治以来、政教分離を取り入れようと試行錯誤してきました。

明治政府は、信教の自由に「安寧秩序を妨げず、臣民としての義務に背かない限り」という限定をつけた上で、政教分離を無理に取り入れようと、「神道は宗教にあらず」とし、“宗教ではない”「国家神道」を創り出し、他の宗教を従わせ、一部の宗教を弾圧しました。

問題の原因は、「神道を国教化しようとした」ことではなく、むしろ「国教を否定し、“宗教ではないもの”を国是とし、信教の自由を制限し、宗教を弾圧したこと」だったのです。神仏習合的な国教を掲げ、信教の自由をも保障していれば、問題は起きなかったはずです。

しかし、戦後、GHQは神道指令により、日本の政治から宗教を排除しようとしました。これについては、政策担当者であったW・ウッダードも、自著『天皇と神道』で「宗教と国家の余りにも極端な分離、及び国家神道という語の使用法の混乱」があったと認めています。

◆信教の自由を守り、唯物論国家に対抗せよ

日米両国は、国民にとって最も自然な信仰を考えた上で、世界レベルで信教の自由を拡大するため、さらなる寛容性を持った宗教を、一種の国教として掲げることが望まれます。緩やかな政教一致の下、信教の自由を保障することが、最も国の安定に寄与するのです。

そして、両国が協力して、唯物論によってあらゆる人権を弾圧している中国共産党に対抗し、神仏の名の下に、平和裡に思想・言論戦に勝利することが望まれているのです。

小松 由佳

執筆者:小松 由佳

HS政経塾第2期卒塾生 幸福実現党徳島県本部副代表

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