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普天間基地移設問題~解決への道(1)普天間飛行場移設に向けての経緯

野田首相は12日、オバマ米大統領と会談し、米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設に向けた環境影響評価書を年内に提出することを報告しました。

着々と移設に向けて手を打とうとする政府に対して、14日、政府が環境影響評価書を断念するよう求める意見書を沖縄県議会が全会一致で可決するなど、先行きを危ぶむ声が上がっています。

しかし、10月26日に、名護市内で住民2,200人余りが参加した「北部振興推進・名護大会」では、「日米合意を踏まえた普天間飛行場移設の早期実現」など7項目が決議されました。

移設賛成派住民がこうした大会を開催して声を上げるのは初めてのことで、普天間基地移設に向けて、沖縄県民の間にも「着実な変化」が起こりつつあります。(産経10/27「普天間移設 早期実現へ決議 声を上げた賛成派」) ⇒http://sankei.jp.msn.com/politics/news/111027/plc11102722520010-n1.htm

そこで、普天間飛行場移設問題の経緯と沖縄県民の意識の変化、そして解決への道について、5回に分けてレポート致します。

(1)普天間飛行場移設に向けての経緯

普天間飛行場の移設問題が本格的に浮上したのは、今から16年前のことです。1995年に米兵による少女暴行事件が起きました。

その上、起訴に至らなければ関与が明らかでも米兵の身柄を日本側に引き渡すことができないという日米地位協定の問題もあり、「米兵の暴挙はこれ以上許さない」と県民の怒りに火がついて大規模な県民総決起大会が催されました。

当時、近所の女子高生が「もう我慢がならない。今こそアメリカを追い出すんだ」といきりたっていたのを覚えています。

大会を契機として、米軍基地の整理・縮小と日米地位協定の改定を強く求める訴えが強くなり、当時の大田知事も政府に対しその実行を強く迫りました。

その後、1996年に日本国政府および米国政府によって沖縄に関する日米行動委員会(SACO)が設置され、その最終報告を受けて沖縄県民に配慮した日米合意がもたらされました。

その中に盛り込まれた重要な一文が「今後5ないし7年以内に、十分な代替施設が完成し運用可能になった後、普天間飛行場を返還する」というものでした。更に嘉手納基地以南の大半の基地を返還するということも確認されました。

当時、普天間基地の返還業務を担当した政治家や官僚の方々は「先の戦争から復帰後も含めて、沖縄に多大な迷惑をかけてきた。だから、沖縄の労苦に報いなければいけない、負担軽減は絶対しないといけない」という気持ちをもって誠実に取り組んでおられたことと思います。

翌97年12月に基地受け入れの是非を問う名護市民投票が行われました。投票結果は僅差の52.8%が受け入れ反対。

しかし、比嘉名護市長が海上基地受け入れと辞任を表明、首相官邸ではその報告を受けた橋本首相が「ありがとう」と男泣きしたそうです。

その後の市長選挙で移設容認派の岸本氏が初当選を果たしましたが、病気のため、任期を全うすることができませんでした。

しかし、岸本市長も病気が重くなる中「次の市長選までに、人生最期の機会として普天間問題の後始末をしなければならない」という思いで取り組んでおられたそうです。

岸本氏は翌98年病気のため死去されますが、次期市長選で島袋氏が当選。後継の島袋市長は岸本氏の死去11日後に、防衛庁と滑走路二本のV字形案で基本合意しています。つまり、名護市は3期続けて移設容認派市長を誕生させたのです。

しかし、結果的に15年間、普天間飛行場は1センチも動くことはありませんでした。(つづく)

(文責・沖縄県本部副代表 金城タツロー)

金城 竜郎

執筆者:金城 竜郎

幸福実現党沖縄統括支部代表

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