普天間基地移設問題を巡る「ゴネ得」を許すな!――日米同盟を駆け引き材料にする沖縄県知事
普天間飛行場移設へ一歩前進
防衛省沖縄防衛局は22日、米軍普天間飛行場の移設先である名護市辺野古沿岸の公有水面埋め立て承認申請書を沖縄県北部土木事務所に提出しました。(3/22 産経「辺野古埋め立てを申請 普天間移設で防衛省」)
幸福実現党は、普天間基地の辺野古移設(県内移設)を主張し続けて参りましたが、1996年に日米が普天間飛行場返還で合意してから17年を経て、ようやく実現へ一歩前進しました。
今後、埋め立ての許可権限を持つ沖縄県の仲井真弘多知事から許可を得られるかが焦点となります。この問題がいかに迷走してきたか、今一度振り返ります。
迷走に迷走を重ねた普天間移設問題
1996年、故橋本総理の下で、海上施設を建設し、7年以内に普天間飛行場のヘリコプター運用機能のほとんどを移設し、普天間飛行場を返還するという取り決めがなされ、2003年までに普天間基地は移設返還されることになりました。
しかし、大田昌秀・沖縄県知事(社民系)がこの合意に反対し、2年間にわたり日米合意は一歩も進まず、足踏み状態が続きました。
1998年11月、稲嶺惠一氏(自民県連推薦)が県外移設を訴える大田知事を破り、「県内に軍民共用空港を建設する」ことを公約にして当選しましたが、公約を守らず、のらりくらりと対応し、規模・工法・具体的建設場所等を決めるのに結局4年近くかかってしまいました。
稲嶺知事就任後6年たっても、建設現場では何も進みまず、2004年8月。沖縄国際大学に米軍ヘリが墜落しました。まさに、こうした事故を無くすために、普天間基地移設を急いでいたのです。
稲嶺知事は米国に激しく抗議し普天間基地の早期返還を要求しましたが、サボタージュを続ける知事に本来言う資格はありませんでした。
2004年9月、建設予定水域でのアセスメント調査の準備開始。反対派の妨害で中止となり、海上保安庁は反対派の強制排除拒否。中止のまま年明けとなりました。
結局、稲嶺知事は公約、軍民共用空港案を進展しないまま、7年間を無為(知事のサボタージュ)に過ごし、白紙化されました。
普天間基地移設を巡る「ゴネ得」
2006年11月、沖縄県知事に「県内移設」を掲げる仲井真弘多氏(自民推薦)が当選しました。仲井真知事は、政府V字案の修正を要求し、基地県内移設は容認しました。
ところが、仲井真氏は知事に就任すると、「1cmでも沖合に出してくれ」と条件闘争を始めました。また、名護市も滑走路を沖合へ500メートル移動することを希望しました。
そして、2009年、民主党政権が誕生し、鳩山元首相の「少なくとも県外移設」発言で移設問題は振り出しに戻り、それに乗じて、仲井真氏は2010年の県知事選で、これまでの主張を一転、翻して「県外移設」を強調して再選されました。
野田政権は2011年9月、翌年度の沖縄関係予算を2400億円、内1000億円前後を自由に使える一括交付金とする方向を示しましたが、仲井真知事は予算全体を3000億円に増額し、全て自由に使える「沖縄振興一括交付金」とするよう要求。
普天間基地問題を解決したい日本政府は同年12月、沖縄関係予算を500億円上乗せして総額2937億円に増額し、一括交付金も500億円増額して1575億円としました。
その結果、沖縄県には中小零細を含むと5000社を超える建設関連業者が存在する異常な状態が生まれています。
更に、2012年3月には期限切れになった沖縄振興特別措置法を改正し、今後10年間の沖縄県への予算特別措置が決定されました。
米国務省のケビン・メア元・日本部長(元駐米沖縄総領事)が「日本人は合意の文化を『ゆすり』の手段に使う」と発言してバッシングを受けましたが、基地を巡る「ゴネ得」が横行していたことは事実です。
政府はリーダーシップを発揮し、普天間移設を断行せよ!
これら一連の沖縄の動きは巧妙な罠をしかけ、引き延ばすだけ引き延ばし、振興策のお金をダラダラもらう、そして普天間の軍用地主の利権もダラダラ先延ばしするというズルイ戦術を意図的に使っているとしか考えられません。
2010年、日本政府から「旭日重光章」を叙勲されているシンガポール政府高官が、日本を「図体のでかいデブの負け犬」と批評しました。
日本の「愚かさ、劣悪なリーダーシップ、ビジョンの欠如」がASEANでの地位後退を招いたと指摘しましたが、この沖縄県の経緯を見ると、日本の劣悪なリーダシップというより、そもそも国にリーダーシップがないと言わざるを得ません。
外交安全保障は、国の専権事項です。仲井真知事が公有水面の埋め立てを拒否した場合、政府は移転先の辺野古沖の埋め立て許可権限を、県知事から取り上げ、総理大臣に移す特別措置法の制定し、国家主導で迅速に移設を進めるべきです。(文責・加納有輝彦)