石原慎太郎なる幻影
「日本人が日本の国土を守るため、東京都が尖閣諸島を購入することにした。」
「日本の国土を守るために島を取得するのに何か文句ありますか。やることを着実にやらないと政治は信頼を失う。」
これは本年、4月16日(日本時間17日未明)米ワシントンでの講演での石原都知事(当時)の発言です。この発言がある意味、本年を規定したと言っていいかもしれません。
多くの国民が石原氏の発言に賛同し触発され、尖閣諸島購入費として14億円以上の大金が寄付金として集まりました。
日本人の国防意識を刺激した石原氏には、常に「国家」という概念が隣在します。
その石原氏がお国のために一身を投げ出したいと、本年10月、都知事を辞職する旨表明し、次期総選挙で新党を立ち上げ、自ら立候補する意向も示し大いに耳目を集めました。
石原氏の目的はずばりキャスティングボードを握り、総理大臣就任となることです。80歳にしてその意気込み、バイタリティーは尊敬に値します。
総理への道・戦略は、自公に絶対に過半数を取らせないためことが条件と考え、「ミニ政党の乱立は、大政党を利するだけ」という判断から、石原氏は「第三極の結集こそ勝ち筋」として、小異を捨て大同団結を呼び掛けています。
石原氏率いる新党・太陽の党は、過日、減税日本と合流するかと思いきや、翌日にはそれを反故にし、日本維新の会と合併。しかも「太陽の党」という党は一夜にして解党となり消えました。
まさに、なりふり構わぬ猪突猛進ブリです。
もちろん、選挙は勝たなければ意味はありません。ミニ政党の乱立を防ぎ、第三極の大同団結を成さねば自公の過半数を阻止することはできない。恐らく、正しい選択でありましょう。
しかし、「暴走老人」こと石原氏にいま期待することはそのような小沢一郎氏を彷彿とさせる「数は力」の論理で、政治屋・選挙屋よろしく選挙対策に右往左往する姿でないと思います。
あまつさえ、「国家と対等な地方政府」樹立を企む「国家解体論者」橋下氏率いる日本維新の会に秋波を送る姿は、国家を憂う石原氏の幻想とかけ離れ、老いらくの恋の醜さにも似た嫌悪感を抱くのは私だけでしょうか。
ああ、国家なる石原氏が選挙対策に右往左往し、減税日本との「約束」を一夜にして反故にするというような「日本男子」として信義に反する醜態を晒すに至っては、痛々しくもあり哀しい。
石原氏は「小異を捨てて大同で組む」と語りましたが、国家観、憲法観、消費増税・原発・TPP政策等の両党の政策の極端な違いを「小異」として切り捨てる暴挙は、信念を捨てた政治家の姿であり、維新の会は「野合」「ポピュリズム」の凝塊に過ぎません。
石原氏は現行憲法を無効として廃棄し、新たな憲法を作るべきだと主張していました。しかし、橋下氏は現行憲法廃棄に反対の立場を取っています。政治家にとって根幹である憲法観さえ「小異」なのでしょうか?
ああ、国家なる石原氏が、理念を捨て、誇りをも捨てた権謀術数から超越して、孤高にして国を憂える人のまま国家のために見事散ってくれたなら、遅れてくる青年たちに氏の人生の余韻が長らく残り、精神的遺産となったでありましょう。
国を憂う石原氏の本来の「意志」を引き継ぐのは、もっともっと純粋な至誠の人であると思うのです。石原氏は決して、国家解体論者ではなかったはずです。
共同代表だったもう一人の平沼赳夫氏の魂は何処を彷徨っていらっしゃるのでしょうか。「保守再興」を掲げて来た闘士が、アッサリと国家観も、憲法観も全く違う政党の軍門に下ることを是としているのでしょうか。
大いなるものの喪失に哭いていらっしゃる保守系の方々も多いのではないでしょうか。
石原氏には最晩年、権謀術数から超越した、内村鑑三氏の言を借りれば、まさに「凛とした精神」という後世への最大遺物をこそ残してほしかった。本来の国家理念と共に、純粋に馬鹿一の如く、国家と心中してほしかった。
今、政治家への不信がピークに達している感があります。政治家の言葉ほど軽くなったものはありません。
石原氏は目的を実現するために「選挙屋」をあえて演じているのでありましょう。しかし、その演技により、失われた「精神」も計り知れません。
幸福実現党は、国家国民の幸福のため、全精力で次期総選挙で戦うことを宣言しました。
「宗教政党」として凛として善悪を峻別し、正義を打ち立て、正論を正々堂々と訴え続けて参ります。
(文責・加納有輝彦)