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昭和天皇の終戦の御聖断【前編】

文/幸福実現党・政務調査会 佐々木勝浩

◆戦争を終わらせることは、戦争を始めるよりも難しい

はじめに、戦後70年目の終戦の日を迎え、大東亜戦争で国の為に命を捧げられた御霊に対して心より感謝申し上げます。

現在、終戦に至るまでを描いた映画「日本のいちばん長い日」が話題を呼んでいます。

戦争を終わらせることは、戦争を始めることより難しいことです。終戦の決断をめぐり内乱が起きてもおかしくなかった状況下で、終戦の決断は如何に行われたのでしょうか。

そこには、自分の命に代えても日本の国を後世に残こそうとされた先人方のすさまじい覚悟がありました。

◆鈴木貫太郎の最後の御奉公

昭和20年4月、戦況悪化の責任をとって辞職した小磯國昭の後継を決める重臣会議が持たれました。その会議で後継に推薦されたの、侍従職の経験もあり昭和天皇から信任が厚かった鈴木貫太郎でした。

鈴木貫太郎は総理就任にあたり、国民に次のように呼びかけました。

※日本ニュース第250号(昭和20年4月23日)戦争証言アーカイブス. NHKより(動画)
(http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300378_00000&seg_number=001)

「私に大命が降下いたしました以上、私は私の最後のご奉公と考えますると同時に、まず私が一億国民諸君の真っ先に立って、死に花を咲かす。国民諸君は、私の屍を踏み越えて、国運の打開に邁進されることを確信いたしまして、謹んで拝受いたしたのであります。」

鈴木貫太郎は、自分の内閣で終戦に導くという大命を自覚していました。

◆終戦の御前会議

戦況はますます悪化し8月6日には広島に、9日には長崎に原爆が落とされました。さらに日本が和平交渉仲介を依頼していたソ連が、9日に突然宣戦布告してきたのです。

9日深夜と14日にも御前会議(天皇陛下をお迎えしての会議)が開かれました。会議は日本に降伏を求めたポツダム宣言を受諾すべきとする東郷茂徳外相ら3名と徹底抗戦を主張する阿南惟幾陸軍大臣ら3名に分かれました。

ここで鈴木首相が前者に賛成すれば、4対3の多数決でポツダム宣言の受諾を決議できるのですが、戦わずして敗北を受け入れることができない徹底抗戦を叫ぶ青年将校たちの暴発は止められないと考えていました。

一方で鈴木首相は、終戦の決断が遅れれば、ソ連が満洲、樺太ばかりでなく、北海道にも進攻し、ドイツ同様に分割されてしまう、そうなれば日本の滅亡は免れない、相手がアメリカであるうちに終戦の決着をつけなければならないとも考えていました。

そこで、鈴木首相は昭和天皇に御聖断を仰ぐことによって終戦に導こうと考えたのです。これは昭和天皇と侍従を務めたことのある鈴木首相であるからこそできたともいえます。

鈴木首相は静かに陛下の前に進み、大きな体をかがめて礼をしてお願いしました。

「遺憾ながら3対3のまま、なお議決することができません。この上は、まことに異例でおそれ多いことでございますが、陛下の御聖断を拝しまして、本会議の結論といたしたいと存じます。」

◆昭和天皇の御聖断

以下は14日の時のお言葉ですが、昭和天皇は時々、白手袋をした右手を頬に当てながら次のように述べられました。

「世界の現状と国内の事情とを十分検討した結果、これ以上戦争を続けることは無理だと考える。国体護持(日本の天皇中心の国柄を守ること)の問題について、いろいろ疑義があるらしいが、(中略)要はわが国民全体の信念と覚悟の問題と思うから、この際(ポツダム宣言の)申し入れは受諾してよろしいと考える。みなもどうかそう考えてほしい。」

それを聞いて会議の席で皆は涙があふれていました。昭和天皇も、涙をぬぐい続けました。

「陸海軍の将兵にとっては、武装の解除なり保証占領というようなことはまことに耐えがたいこと、その気持ちはよくわかる。」
 
「しかし、自分はどうなろうとも万民の生命を助けたい。このうえ、戦争を続けていれば結局はわが国がまったくの焦土となり、万民にこれ以上の苦悩をなめさせることになり、自分としてはじつに忍び難い。祖宗の霊にも、お応えできない。」

「和平の手段にしても、先方のやり方に全幅の信頼がおけないのは当然であるが、日本がまったくもってなくなるという結果に比べれば、少しでも種子が残りさえすればさらにまた復興の光明も考えられよう。」

「明治大帝が涙をのんで思い切られた三国干渉当時のご苦喪をしのび、この際、耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、一致協力して将来の回復に立ち向かいたいと思う。」

「今まで戦場で陣没し、あるいは殉職して非命にたおれた者、またその遺族を思うと悲嘆に耐えぬ。また、戦傷を負い、戦災をこうむり、家業を失った者の生活について、自分の心配するところでもある。」

「この際、自分としてはなすべきことがあれば、なんでもいとわない。国民に呼びかけることがよければ、いつでも自分はマイクの前にも立とう。」

下記は、昭和天皇が昭和20年に詠まれた御製(ぎょせい:天皇陛下が詠まれた和歌)です。

爆撃に たふれゆく民の 上おもい いくさとめけり 身はいかならむとも

身はいかに なるともいくさ とめにけり ただたふれゆく 民をおもひて

「自分の身はどうなってもかまわない。苦しんでいる国民を助けたい」、これが昭和天皇の御心でした。

(【後編】につづく)

※なお、政党より下記声明を発表しましたのでお知らせいたします。

■「戦後70年談話」を受けて(党声明)
http://info.hr-party.jp/press-release/2015/4585/

■終戦の日にあたって(党声明)
http://info.hr-party.jp/press-release/2015/4590/

佐々木 勝浩

執筆者:佐々木 勝浩

幸福実現党 広報本部スタッフ

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