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「東京裁判」――日本の無罪を訴えたパール判事

文/幸福実現党・政務調査会 佐々木勝浩

◆勝者のアメリカに日本を裁く資格があるのか

極東国際軍事裁判、いわゆる「東京裁判」は、終戦後の昭和21(1946)年5月から昭和23(1948)年11月にかけて行われました。

アメリカは、ドイツのユダヤ人大虐殺と同じように、日本が戦争でやった残虐な行為を裁く必要がありました。

なぜならアメリカは、東京空襲で10万人、広島長崎の原爆で20万人の民間人を虐殺しました。こうした国際法に悖る行為を打ち消すために日本の残虐性を世界にアピールする必要があったからです。

東京裁判は最初から日本を悪者にするという結論があり、そこに導くため裁判で、偽証罪も問われず、ウソの証言も検証されず採用されました。

その最たる例が、「南京虐殺」です。一例をあげるなら、崇善堂という慈善団体が行ったという南京での「15万の遺体の埋葬記録」ですが、これは東京裁判のために戦後になってつくられた架空の数字です。

なぜ架空と分かったかというと、崇善堂という慈善団体は、当時埋葬活動を行っておらず、南京戦前後は活動をしていないことが当時の南京市の記録で明らかになったからです。

しかしそ架空の「15万の遺体の埋葬記録」がそのまま採用され、「日本軍は20万人の市民を虐殺した」と判決が下されました。その責任を取らされ絞首刑になったのが南京の総責任者であった松井岩根大将です。

◆東京裁判で日本の無罪を主張したパール判事

この東京裁判の連合国側の判事で、唯一日本の無罪を主張したのが、インドのパール判事です。パール判事はこう言います。

「わたしは1928年から45年までの18年間の歴史を2年8カ月かかって調べた。各方面の貴重な資料を集めて研究した。(中略)このわたくしの歴史(パール判決書)を読めば、欧米こそ憎むべきアジア侵略の張本人であることがわかるはずだ。」

「(日本人は)自分らの子弟に『日本は国際犯罪を犯したのだ』『日本は侵略の暴挙を敢えてしたのだ』と教えている。日本の子弟が歪められた罪悪感を背負って卑屈・頽廃に流されてゆくのを、わたくしは見過ごして平然たるわけにはゆかない。」

◆パール判事は広島をどう見たか

またパール博士は、原爆慰霊碑である「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませぬから」を知った時、「この《過ちは繰返さぬ》という過ちは誰の行為をさしているのかと日本人に尋ねたことがあります。

「その原爆を落した者は日本人でないことは明瞭である。落した者が責任の所在を明らかにして『二度と再びこの過ちは犯さぬ』というならうなずける。」とその碑の矛盾を指摘しています。

「アメリカは原子爆弾を投ずべき何の理由があっただろうか。そこに人種的偏見はなかったか。これを投下したところの国から、真実味のある、心からの懺悔の言葉をいまだに聞いたことがない」(1952年11月に、広島で開催された「世界連邦アジア会議」の講演)と批判しました。

◆パール判事が残した「大亜細亜悲願之碑」

そしてパール博士は、広島の「過ちは繰り返しませぬから」に代わる碑文として本照寺にある「大亜細亜悲願之碑」の言葉を残しました。

激動し変転する歴史の流れの中に
道一筋につらなる幾多の人達が
万斛の思いを抱いて死んでいった
しかし大地深く打ち込まれた悲願は消えない
抑圧されたアジアの解放のため 
その厳粛なる誓いにいのち捧げた魂の上に幸あれ 
ああ 真理よ あなたは我が心の中に在る 
その啓示に従って 我は進む

パール判事が指摘するように、日本人は自らの国の真実の歴史を取り戻さなくてはなりません。戦後70年の時を迎えその時は今ではないでしょうか!

佐々木 勝浩

執筆者:佐々木 勝浩

幸福実現党 広報本部スタッフ

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