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「南京大虐殺」の虚構――東京裁判の弁護側の反証

文/幸福実現党政務調査会 佐々木勝浩

◆弁護側の反証

前回、東京裁判における検察側の証言を取り上げましたが、一方的に「日本軍はこんな悪いことをした」という証言がなされました。

「南京大虐殺」の虚構――東京裁判の検察側の証言
http://hrp-newsfile.jp/2014/1631/

これに対して弁護側はどういう反論をしたかというと、主に3人が反論しました。一人目は、中山寧人中佐で松井石根大将の下で参謀をやっていた方です。

中山参謀は、日本軍が南京を攻めた時に一番若いということで南京城内に軍と共に入り、松井大将に代わって指示や命令を出した方です。

南京を攻略した数日後の12月17日に松井大将は入城式で城内に入ってきたのですが、中山参謀は松井大将と一緒に3日間行動し、その後21日に松井大将と一緒に、もともと部隊があった上海まで帰っています。

この10日間の間、中山参謀は城内を巡視した際の証言をしています。

「中国人死体を見たのは、下関付近(南京城の外)で100くらいとアジア公園(中山門付近)で30くらいの中国軍人の戦死体とおぼしきものをみただけで、そのほかに常民の死体・虐殺体は私の目にはつきませんでした。」

もう一人、飯沼守参謀長の証言があります。この方は上海派遣軍の朝香宮中将の下で参謀長をやった方です。飯沼氏は南京陥落後、翌年の昭和13年2月の下旬まで2カ月間、城内にいました。

飯沼参謀長は、昭和12年12月16日と20日と年末の3回城内を巡視したのですが、「死体を市内で見たことはない。下関付近で数十の戦死死体を見ただけで数万の虐殺体など夢にもみたことはない」と証言しています。

以上のように二人の日本軍参謀の証言は、検察側のベイツの証言とは全然違っています。

では、東京裁判で松井大将はどのように証言したのでしょうか。松井大将は当時自分が書いた日記の内容を述べました。

◆松井大将の証言

松井大将は12月17日に入城式をやり、18日は城内で慰霊祭をやって、19日に中山参謀とか武藤参謀副長などを連れて、城内を巡視しています。そのとき小高い丘から南京を見て松井大将は以下のような日記を書きました。

「火災はすでにやみ、市内平穏にして、避難民も暫時その家宅に帰来しつつあるを見たり。なお当時、わずかに約20名の遺棄せるシナ兵の戦死死体を見たるのみにて、市内の秩序はおおむね恢復しつつあるを認めたり」

結局、松井大将も車で19日、城内を回ったのですが、検察側が証言したような死体は見ていません。見たのは戦死死体だけでした。

このように前回のニュースファイルで紹介した検察側と証言と真っ向から対立したわけです。

◆一方的な判決

しかし法廷はどう判断し判決を下したのかというと、上記のような弁護側の反証は一切無視して、ベイツと許伝音の意見だけを取って「最初の2、3日で男女子供1万2千人を日本軍は殺害した」と結論づけました。

しかも注目すべきはベイツの証言で「最初の2、3日」と言ってないにも関わらず、わざわざ「最初の2、3日」を付け加えて判決を下したのです。ここまで東京裁判は、日本側の証言を無視して一方的に行われました。

こうして日本軍が南京事件で虐殺を行ったという理由で、その責任を問われて松井石根大将は死刑になったのです。最初から日本を一方的に「悪」と決め付け、判決が下されたのが東京裁判であったのです。

次回、南京城の中にあった「安全区」とは、どういうものであったのか、それを検証することによって「南京大虐殺」が虚構であったことを証明いたします。

佐々木 勝浩

執筆者:佐々木 勝浩

幸福実現党広報スタッフ 課長代理

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