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日本は“戦後”を脱却し、世界に誇る大国たれ!

文/HS政経塾3期生 瀬戸優一

◆未だに色濃く残る“戦後”の傷跡

日本は先の大戦の敗戦国としての傷が未だに癒えていないと言われています。自虐史観や、GHQによって押し付けられた憲法など、戦後レジームからの脱却ができていないというのが、残念ながら現状と言えるでしょう。

これだけの大国となりながらも、どこか世界の中で自国に対し自信を持てないでおり、他国の反応などに対して敏感で、自立した国家には見えないような部分があることは、否めないのではないでしょうか。

しかし、戦後、敗戦の傷跡が深く残っていた頃に、日本の誇りを取り戻すために死力を尽くした方々がいたことも事実です。

◆国際地球観測年の国際共同観測

「南極観測船「しらせ」が12日午後2時6分(日本時間午後8時6分)、昭和基地に接岸した。

基地周辺ではこの数年、海氷が厚く接近が難しい状況で、船に勢いをつけて氷に乗り上げて重さで氷を砕いて進む航行を、往路で過去最多の3187回繰り返した。」(1/15 朝日新聞デジタル)というニュースが今年も流れました。

これは1956年から続く南極観測事業です。

戦後日本はサンフランシスコ講和条約に基づき、1952年4月に独立国として認められましたが、敗戦国のレッテルを貼られ、国際舞台への復帰は果たしていませんでした。

そうした中、第3回国際地球観測年(IGY)が、1957年~1958年に行われることが決まり、日本もその中で南極観測に参加することが決まります。

しかし、その決定が行われたIGY特別委員会ブリュッセル会議では日本は各国から罵倒を受けたと言われています。

まだ食糧難が続いていた頃でもあり、“日本には国際舞台に上がる資格はない”と言われながらも、「今こそ日本の底力を見せるときである」と、南極観測は関係者のみならず、国民全体が総力を挙げた一大プロジェクトとなりました。

もちろん様々な反対もあったそうですが、国や企業が資金援助には後ろ向きだったとき、全国の子供たちが自分のお小遣いを握りしめ、南極観測のための募金を行うなど、未来を信じる人たちによって、プロジェクトは進んでいきます。

この南極観測において日本の割り当てとなった場所は、アメリカやソ連なども接岸が出来ないという“Inaccessible=接近不可能”とされていた南極東部のプリンスハラルド海岸。これもまた大きな逆境でもありました。

しかし、日本は短期間で様々な企業も協力し、装備や物資を整えていきます。このとき、日本初のプレハブ住宅なども誕生しています。

◆世界を驚かせた南極観測

こうして1956年11月8日東京港晴海埠頭を出港した初代南極観測船「宗谷」は数々の苦難を乗り越え、プリンスハラルド海岸へ接岸し、1957年1月29日オングル島に上陸し、日本初の南極観測基地を「昭和基地」と命名しました。このニュースは日本中を沸かせ、勇気と自信を与えることになります。

そしてこのとき、本来は基地の建設をして翌年再上陸し、1年間の越冬観測を行う予定だったのを、そのまま越冬観測に入ることが決定します。そしてその観測成果は、オーロラ発生の謎の解明に結びつくなど、世界を驚かせることとなります。

◆日本の誇りを取り戻す

この南極観測は国民に希望と勇気を与えるものとなりましたが、実際観測に携わった方々も、敗戦国の傷から立ち直り、日本を復活させたいという思いを強く持っておられたということです。

こうした先人の方々の多大な努力のもとに、今日の日本があることを忘れてはならないと思います。

私達幸福実現党は「日本の誇りを取り戻す」ことを掲げていますが、先人への感謝を深めつつ、日本を世界の一流国たらせるべく、努力してまいります。

瀬戸優一

執筆者:瀬戸優一

HS政経塾3期生

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