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日本防衛戦略「核抑止編」【第2回】―アメリカの核戦略の変遷と教訓

◆『大量報復戦略』

【第1回】では、「核兵器の種類、核兵器の特性、抑止戦略の種類」について述べましたが、今回の【第2回】では、「アメリカの核戦略の変遷と教訓」について論じます。

アイゼンハワー政権の核戦略のキャッチフレーズで、中欧でのソ連の大規模通常攻撃に対する抑止戦略として立案されましたが、核兵器を万能薬と考え、世界各地で頻発する局地戦までも核兵器の大量報復の脅しで抑止しようとしました。

この戦略は、次のような激しい批判を巻き起こしました。

〈1〉局地紛争が起こった場合、一挙に全面核戦争へエスカレートさせてしまう。
〈2〉相手に脅しを信じさせるのに無理があり、抑止効果に信憑性(信頼性)がおけない。

事実、その後も局地紛争は頻発しました。万能薬は効かなかったのです。

◆『段階的抑止戦略』

そのため「段階的抑止戦略」が打ち出されました。一挙には戦略核兵器の撃ち合いにエスカレートしないよう「戦術核兵器」を使用する「中間段階」が組み込まれたのです。

この戦略にも、次のような批判が出ました。

〈1〉「戦略核兵器」の優勢がなければ、相手の「戦略核兵器」による報復にエスカレートする危険がある。
〈2〉「戦術核兵器」の優勢もいずれ消える。

◆『柔軟反応戦略』

ケネディー・ジョンソン政権の核戦略と通常戦略を総称して「柔軟反応戦略」と呼びます。通常戦争には通常戦力で、という振り出しに戻りました。

この政権間に、核戦略のキャッチフレーズは、「損害限定」「確証破壊」「相互確証破壊」と変化しましたのです。

頻発する局地紛争の抑止・対処は通常戦力に依存させ、核抑止の対象は、米国及び同盟国への核攻撃とNATOへの大規模通常攻撃へと縮小しました。

◆『損害限定戦略』

1962年に登場した構想で、敵の第一撃(先制攻撃)を吸収したあと、まず敵の戦略核戦力に対し報復を行って、敵の第二次攻撃力を破壊し、米国の被る損害を限定します。

この際、敵の都市に対する攻撃をひとまず控え、これを人質として戦争の終結交渉を行います。

戦争の終結交渉が進展しない場合、敵の都市、工業地帯に対し、慎重にコントロールされた核攻撃を行って、交渉の圧力を増加しようとするものであり、「優勢勝ち」を狙うものでした。

◆『確証破壊戦略』

米国の核攻撃力増強も制限する必要があると考え、「確証破壊」=「敵が十分に計画された奇襲攻撃をわが部隊に加えてきたあとでも、その侵略国が社会として、生活できないようにする破壊力」という量的基準を設けました。

具体的には、ソ連の工業力の70%を破壊し、効果がほぼ頭打ちとなる核弾頭数は、200~400発と分かりました。この数を「最小限抑止力」といい、今日でも通用します。

「損害限定プラス確証破壊」という構想で、米国の核抑止戦略は1960年代半ばに確立したかに見えました。

◆『相互確証破壊戦略』(MAD)

ところが、1967年、抑止の重点は「損害限定」よりも「確証破壊」にあるとされ、1968年には、「相互確証破壊」(互いに破壊を防ぎ得ない無能力さ)が、「双方にとって戦略核戦争を避けようとする最大かつ可能な動機」になるとの戦略が推進されるようになりました。

アメリカの実業家、政治家で、1961年から1968年までケネディ、ジョンソン大統領の下で国防長官を務めたマクナマラは、「恐怖の均衡」の安定化(戦略的安定性=軍拡競争の防止)へ、ソ連と軍備管理交渉を始め、軍拡競争の防止は、ソ連に受け入れられたと判断しました。

しかし、ニクソン政権は、「相互確証破壊戦略」の問題に気づきます。

〈1〉抑止が破れれば、確証破壊に匹敵する大損害を被る恐れがある。
〈2〉これに怖気づけば降伏するしかない。

即ち、対応策が事実上「オール・オア・ナッシング」という問題です。

〈3〉また、同盟国に対する核攻撃があった場合、米国はソ連の再報復によって米本土も大損害を被ることを恐れて報復に踏み切れないのではないか、という疑問が生じました。

◆『シュレジンジャー・ドクトリン』(『限定核オプション』、『選択反応戦略』)

1973年、「全面核戦争に至らない侵略(限定核攻撃)に対し、攻撃規模に応じた核反撃を行う」という「シュレンジャー・ドクトリン」が出されました。

「損害限定戦略」が「核優勢」を背景に、相手の残存核戦略を撃破して「優勢勝ち」を収めることを企図したのに対して、「シュレンジャー・ドクトリン」は、「核均衡」を背景に、戦闘の低いレベルで核の撃ち合いを止めることに相違がありました。

核均衡下においても、米国は核攻撃に対して何もしないでは終わらせない、という決意表明であり、
「核攻撃の規模に応じた核反撃」を同盟国に約束することで、「核の傘」(拡大抑止)の保障を与えるものでした。

「攻撃の規模に応じた反撃」という基本構想は、冷戦終了まで継続されました。

◆『相殺戦略』

デタント(緊張緩和)は、蜃気楼であり、米国の一人相撲でした。

ソ連共産党政治局が「相互確証破壊」を受け入れても、ソ連参謀本部は受け入れていなかったのです。

ソ連参謀本部は、「集中的な先制核攻撃で米国の核戦力を壊滅するとともに、政治経済中枢を破壊する」先制攻撃論を維持し、核戦争の長期化さえ考えていました。

ソ連は核戦力を増強し続け、先制攻撃で米国の全ICBM戦力を壊滅できる重ミサイルを配備し、「恐怖の不均衡」が出来上がりました。

カーター政権は、「恐怖の不均衡」を知って、「相殺戦略」を名づけた対抗策を取り、ソ連の重ミサイルに匹敵し、「緊急自動目標変更能力」を持つ核ミサイルの生産・配備を決定しました。

配備される1986年までの期間は、「脆弱性の窓」と呼ばれました。

特筆すべき点は、「目標設定」にクレムリンへの射撃を導入し、「政治中枢の破壊(断頭攻撃)」によるソ連の国家としての一体性の破壊を狙ったことです。

◆『SDI(戦略防衛構想)』

レーガン政権は、1983年3月、SDI(核攻撃の拒否型抑止)を提言しました。

SDIは、ソ連の弾道ミサイルに対し、レーザー兵器やレールガン等で防衛網を構成し、弾道ミサイルを無力化しようとするもので、究極の目的は「核廃絶」でした。

莫大な経費と技術力を要するSDIは、圧倒的にソ連に不利であったため、ソ連は軍備管理交渉に応じるようになり、ゴルバチョフの「ペレストロイカ(改革)」「グラスノスチ(情報公開)」の下、1991年、崩壊しました。

◆教訓

〈1〉核戦力で「局地侵略」を抑止することはできない。
〈2〉脅しは強いが、実際に使えそうもない戦略を立ててはならない。
〈3〉一面が優れていても他面に欠陥を持つ戦略を採用してはならない。
〈4〉我の合理的判断を敵も共有できると即断してはならない。
〈5〉「オール・オア・ナッシング」の選択しかできない戦略ではいけない。
〈6〉軍拡競争は、悪いものとされやすいが、そうでない場合もある。
〈7〉技術力と、それを支える経済力で、優位に立たねばならない。

以上、「アメリカの核戦略の変遷と教訓」を論じて参りましたが、【第3回】は、私案として「核装備プラス日本版SDI」を提案いたします。

中村こうき

執筆者:中村こうき

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