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習近平は、毛沢東が「親日」だったことを知っているか【前編】

文/幸福実現党・政務調査会チーフ 小鮒将人

◆書籍「毛沢東」出版の衝撃

2015年11月、遠藤誉著「毛沢東」(新潮新書)が出版されました。

著者は、1941年(昭和16年)中国吉林省長春(元満州国新京市)生まれ、国共内戦を経験し、1953年日本に帰国、現在は、東京で大学の教鞭をとっており、自らの経験を数冊の書籍にまとめています。

この書籍の中では、中華人民共和国建国の父である毛沢東について、我々日本人があまり知る事のない事実が記載されています。

一部は、著者の推測があるものの、筋を立てて確認すると、非常に説得力があり、日中双方にとって衝撃的な内容です。

今回は、その書籍で日本との関わりについて重要な部分についてお伝えいたします。

◆明治維新へのあこがれが強かった

毛沢東は、清朝西太后の時代、1893(明治26)年、富裕な農家に生まれました。

当時、清は、欧米の帝国主義によって、その広大な領土が蚕食されつつあり、国家の危機の時代でした。

毛沢東は、幼少時から強い学問への情熱を持ち、様々な書籍を読み漁るうちに、この危機を乗り越えるためには、日本の明治維新の「富国強兵」を手本にすべし、と強く感じました。

たとえば、故郷を離れる際に父親に送った漢詩は西郷隆盛の逸話に関するものでありました。

また、宮崎滔天が湖南省に演説に来たときにも、その演説に感激、さらに日本への尊敬の念を強めたと言われています。

◆中国共産党の立党から大東亜戦争まで

さて、この書籍では、毛沢東及び中国共産党の党史が分かりやすく記載されています。

実は、ソ連(コミンテルン)は、マルクス理論に基づき、「労働者による革命」を欧州で実現しようと画策しますが失敗に終わり、その矛先を中国に集中的に絞りました。

中国共産党は1921年に立党しますが、これはコミンテルンのおぜん立てによるもので、実際のところ、ソ連の傀儡でした。

当時、清朝を倒した孫文の国民党とは天地ほどの差があり、政治勢力として対抗できる力は全くありませんでした。

そこで、ソ連(コミンテルン)は「やどかり理論」と称して「国民党との共同歩調(国共合作)」を指示しました。

孫文の考えは共産革命の理論とは正反対で、共産党は当初、全く相手にされませんでしたが、ソ連が国民党に協力することを伝えることで、最終的に合意しました。

しかし、共産党がその勢力を拡大し、力を付けてくると、国民党から分離し、独自の「国家(中華ソビエト共和国)」を建設し、国共内戦が始まります。

当時は国民党が圧倒的に有利であったために、毛沢東はただ逃げるしか方法がありませんでしたが、ここで「救い」がやってきます。日本軍との戦いが始まったのです。

「盧溝橋事件」がきっかけとなり、日中間の戦争が始まりますが、実際はコミンテルンの謀略だったという説も根強くありますが、いずれにしても、「中国」は日本との戦争がはじまり、再び「国共合作」によって、毛沢東と蒋介石は手を組むことになります。

しかし、毛沢東は原則、日本軍との戦いを厳禁します。それは、国民党と日本とを戦わせることで、国民党軍を消耗させるためであったのです。

やがて米国も対日参戦し、大東亜戦争の開始という状況になりましたが、こと中国国内に焦点を当てると、実態は「日本軍と国民党軍」との戦いでした。

共産党側は高みの見物という図式で、終戦まで共産党は、徹底して日本軍との戦いを避けました。

◆日本陸軍の将官を北京に招く

大東亜戦争終了後、再び国共内戦が始まります。その中で、毛沢東、蒋介石双方が、日本陸軍の力を活用したいとの思惑がありました。

書籍「毛沢東」では、元支那派遣軍総司令官の岡村寧次大将を特に毛沢東が、熱烈に待ち望んでいる様子が描かれています。

岡村大将は、大東亜戦争の「大陸打通作戦」で、中国(国民党)軍を徹底的に破った名将でした。

彼は、終戦後、蒋介石の演説に感動して、記憶後「白団」を組織し、台湾の大陸奪還の助力をします。

毛沢東には、彼の力が無視しがたいほど大きなことを認め、突如数回にわたり、「旧日本陸軍の軍人」を北京に招きます。

実は、本音として招きたかったのは、岡村大将でした。しかし彼は、蒋介石に強い恩義を感じていたため、北京政府に詣でるようなことは決してしませんでした。

しかし、こうしてみる限り、毛沢東率いる「中華人民共和国」は、一貫してそのターゲットを「中華民国」に定めており、おそらく日本軍との大規模な会戦を戦ったことはほとんどなかったことが伺えます。

現在の「中華人民共和国」の習近平主席にはこうした歴史認識を持っていただきたいものです。

こぶな 将人

執筆者:こぶな 将人

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