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「次世代の党」分党考

文/幸福実現党岐阜県本部政調会長 加納有輝彦

◆石原新党の紆余曲折

日本維新の会を分党して旗揚げする事実上の石原新党「次世代の党」は、8月1日に設立することを確認し、月内に「自主憲法制定」を明記した綱領や規約を固め、9月16日に都内で結党大会を開催することを決めました。

新党の理念を、「自立」「新保守」「次世代」とし、「自主憲法制定」が党是となる見通しです。

振り返れば一昨年(2012)の10月、石原氏はお国のために一身を投げ出したいと東京都知事を辞し、同年末の総選挙に日本維新の会で挑みました。

当初、支持政党の「たちあがれ日本」(2010.4立党)の党名を「太陽の党」に変更し(2012.11)国政に再登板した石原氏でした。

しかし自公に過半数を取らせないために、ミニ政党の乱立を避け第三極の結集を呼び掛けていた橋下徹日本維新の会代表代行(当時)に共鳴し、日本維新の会と合流しました。(結果、太陽の党は結党後5日間で姿を消しました。)

2012.12月の総選挙の結果は稚拙な政権運営に終始した民主党への批判、揺り戻しとして、自民党の大勝に終わりました。石原氏は尖閣諸島問題等、風雲急を告げる国情から自分の出番である、総理大臣になれるというお気持ちもあったと思われます。

◆石原氏と橋下氏の決裂

あれからわずか一年半、今回の日本維新の会の分党は、石原、橋下共同代表の方針の決裂が原因でした。

橋下氏は、現在の一強多弱(自民党一強と他の多くの弱い野党という意味)の現在の構図を変えていくことが先決だとし、結いの党や民主党の一部を巻き込んで対抗軸をつくって一強多弱の構図を変えるべきだと主張しています。

一方、2012年末の時点では、石原氏も「第三極の結集こそ勝ち筋」として、小異を捨て大同団結を呼び掛けていましたが、今回、日本維新の会と合流予定の結いの党の江田代表が、「自主憲法制定という言葉は極めてイデオロギー臭の強い手垢のついた言葉だ」と非難し強く反発したことで、石原氏と江田氏が「小異」としてもはや妥協することは不可能となりました。

石原グループ側は、戦後構造を変えていくための一丁目一番地は、自主憲法制定であるとしているからです。分党の原因は、この結いの党との関係だけではありません。

◆大川隆法総裁の慧眼

石原氏は、7/10日夜、BSフジの「PRIME NEWS」に出演し、かつての盟友・橋下徹氏を「(彼が)わからなくなってきた。原発に対する彼の発言も、支離滅裂だ」「彼は歴史を知らない、特に現代史を知らない。」と厳しく批判しました。

この石原氏の橋下批判を聞き、幸福実現党大川隆法総裁の著書「橋下徹は宰相の器か」(2012.6発刊)を石原氏が謙虚にお読みになっていれば、これまでの迷走は回避できたのではないかと思われました。

同著で、大川総裁は橋下氏の本質的傾向を「商売をし、一時的に人気を得て、そこで取り尽くしたらよそに移動する。そこでも取り尽くしたら、からくりがばれる前に、また、よそへ移動する」というタイプの旅芸人のような人ではないかと述べておられます。

大川総裁は、橋下氏に対して、ゼネラルな教養が身についていないので、「幅広い教養」と「啓蒙的な人生観」を身に着けて欲しい、特に「外交、経済」が弱点となっているので勉強して欲しいとアドバイスも送っておられます。

さらに同著あとがきには、「橋下徹氏の守護霊には、維新の志士のように、命を捨てて、大業をなしとげようとする志が感じられなかった。」とも述べておられます。

総理の座をあきらめ「老兵は消え去るのみ」と弱音とも思われる発言が聞かれるようになった石原氏ですが、最晩年をお迎えになり最後の御奉公をと命を惜しまない志をお持ちであるなら、旅芸人の座長たる橋本氏の「曲芸」から離れる事は自然の成り行きであります。

石原氏が、日本の危機を救うために使命を全うされ、危機の時代の政治家の範を示されることを祈念もうしあげる次第です。

加納 有輝彦

執筆者:加納 有輝彦

岐阜県本部政調会長

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