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なぜ日本は負けたのか?~戦史に学ぶ、未来への舵取りと幸福実現党の政策~《第6回》

文/岐阜県本部副代表 河田成治

前回では、強く見せることで戦争を防ぐことができることをお伝えしました。

3.政略、軍略の欠如→未来ビジョンの欠如

◆中長期戦略を策定してこなかった日本

アベノミクスの柱として、日銀は異次元緩和を行いましたが、第三の矢「成長戦略」はいまだ効果を上げておらず、中途半端の感を拭えません。

なぜ、「成長戦略」が上手くいかないのでしょうか?

その理由は「未来ビジョン」の欠如だと思います。残念ながら、日本政府や政治家は、「未来ビジョン」や「国家戦略」をあまり打ち出してきませんでした。

「成長戦略」が不発なのは、日本は「どのような未来国家を目指すのか」という、明確なビジョンが示されていないからだと思います。経済特区政策も打ち出されましたが、全体として何を目指しているのかを、もっとハッキリ国民に訴えるべきでしょう。

つまり、根本的な問題は、「国家戦略」なきところに、「経済成長戦略」は策定できないということです。

◆明治期にあった明確な国家戦略

明治時代には「富国強兵」「殖産興業」という、明確な国家戦略がありました。日本人は、「坂の上の雲」を目指して頑張ったのです。

そして、日本はその理想どおり、世界の五大大国にまで急速に発展しました。

しかし大正になって、日本が五大大国入りすると、急速に国家のグランドデザインを亡くしたように感じます。

その時期に、日本は度重なる試練を受けます。関東大震災1923(大正12)年、排日移民法1924(大正13)年、昭和恐慌1930(昭和5)年などです。

さらに国家ビジョンなきところに襲って来たのは、悲惨な戦争でした。

◆大東亜戦争に見る軍略の欠如

この国家ビジョンを持たないという傾向性は、大東亜戦争の青写真(戦略)をも描けないという日本の弱さを露呈しました。

これは致命的で、戦争の終わり方も決められなかったため、国土を焦土と化すまで戦争を止めることができませんでした。

当時の日本海軍が“唯一”持っていた「戦略」は、「真珠湾でアメリカ艦隊を撃滅し、主力部隊を失ったアメリカは、意気消沈するだろう。

そして戦意をなくしたところを、早期講和に持ち込む」というものでした。そのため、日本は真珠湾攻撃で勝った後は、場当たり的な作戦ばかりで、一貫した戦略らしきものがほとんど出てきません。

この理由は、事実上のトップであった山本五十六司令長官の考えにあります。

山本長官自身が、戦争に勝てるとは思っておらず、「半年一年は存分に暴れてみせますが、しかしながら、2年3年となれば全く確信は持てません」との言葉は有名です。

◆山本長官の心のビジョンと伊藤博文の気迫

山本長官は在米勤務の経験から、国力の圧倒的差を身にしみて知っていたために、「日本の敗北」という心のビジョンを見ていたのでしょう。この点は理解できますが、海軍の最高責任者の心の中の「敗北する日本」というイメージは、現実を引き寄せました。

こういった人材が活躍せざるを得ないところに、日本の教育や風土の問題は大きいと言えます。

これは、エリート人材の登用が、試験の点数のみならず、勇気、積極的思考、粘り抜く心といった、ある意味、宗教的精神性を養うことの重要性を教えていると思います。

一方、日露戦争で、連合艦隊司令長官に東郷平八郎大佐(当時)が抜擢された理由は、「運のいい男」でした。

さらに当時、総理大臣であった伊藤博文は、「陸海軍ともに成功の望みはまったくないが、ロシア軍が大挙して九州沿岸に襲来するならば、わしは俊輔の昔に戻って、自ら武器を取って奮闘する所存だ。兵は皆死に、艦はみな沈んでも、博文は一歩も敵を国内に入れぬ決意だ」と気迫に満ちた言葉を述べています。

この決意が未来を拓いたのではないでしょうか。

日露戦争も大東亜戦争も、勝つ見込みが薄かったことは同じです。しかし、同じく国家存亡の危機をかけた戦争でも、「なんとしても勝つ」という決意、ビジョンを掲げたかどうかは、大きな違いでした。

◆現代政治に理想と国家ビジョンを

現代も高度経済成長を経て、アメリカに追いつく事を達成した以降の、バブル崩壊、大震災、中国等の外交圧力、長期不況など、状況が酷似しています。

今、日本は、新たな「坂の上の雲」を目指して、ワクワクするような、「国家戦略」「未来ビジョン」をぜひとも持つべきではないでしょうか。

次回は、幸福実現党が掲げる「国家ビジョン」を考えてみたいと思います。

(次回につづく)

河田 成治

執筆者:河田 成治

岐阜県本部副代表

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