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天皇陛下の御親拝再開への道を開くために

◆長らく続いて来た天皇陛下の靖国御親拝

8月2日、幸福実現党の釈量子党首は「終戦記念日の首相靖国参拝を求める」声明を発表致しました。⇒http://info.hr-party.jp/press-release/2013/1915/

同声明は、安倍首相の靖国参拝により、天皇陛下の靖国神社への御親拝再開の道を開くべきであると主張しています。

安倍首相の靖国参拝は当然、行われてしかるべきですが、天皇陛下の御親拝は、首相の靖国参拝とは比べ物にならない重要な宗教的意味合いを持っています。

天皇が常に国民の幸福を祈る「日本の祭り主」という御存在であられるが故に、首相による参拝とは重みが全く違うのです。

戦前も含めると、明治天皇は7回、大正天皇は2回、昭和天皇は28回、靖国神社を御親拝されています。

昭和天皇は戦後だけでも30年に渡って、計八回(昭和20年、27年、29年、32年、34年、40年、44年、50年)、靖国神社にご参拝遊ばれています。

しかし、誠に残念ながら、天皇陛下の御親拝は、昭和50(1975)年の行幸を最後に、今上天皇の御代も含め、途絶えたままになっています。

◆天皇と靖国神社の歴史

靖国神社の神門の扉には直径1.5メートルの菊花紋章(「菊の御紋」)があることからも分かるように、靖国神社は天皇陛下が御親拝される特別な神社です。

靖国神社に天皇陛下が御親拝される理由は、その由来に起因しています。

明治天皇は明治2年、明治維新において、吉田松陰、坂本龍馬など、命を捧げられた方々の名を後世に伝え、その御霊を祀るために、東京九段の地に「招魂社」を創建されました。「招魂社」が、明治12年、社号が「靖国神社」と改められ、現在に至っています。(靖国神社HP「靖国神社の起源」より)

靖国神社には、戊辰戦争やその後に起こった佐賀の乱、西南戦争といった国内の戦いで、近代日本の出発点となった明治維新の大事業遂行のために命を落とされた方々をはじめ、幕末の志士達、さらには日清戦争・日露戦争・第一次世界大戦・満洲事変・支那事変・大東亜戦争等に際して国家防衛のために亡くなられた方々の神霊が祀られており、その数は246万6532柱に及びます。(同上)

すなわち、靖国神社には、明治天皇が「国のために命を捧げられた御霊」を祀るために創建された神社であり、皇室と深い関わりを持った勅祭社なのです。

昭和天皇の御製(天皇陛下の和歌)「国のため いのちささげし 人々を まつれる宮は ももとせへたり」(靖国神社百年祭)からも、陛下の英霊に対する思いが深く伝わって参ります。

こうした経緯を考えると、靖国神社に御親拝できないことを最も嘆かれているのは、天皇陛下ご自身でいらっしゃるのではないかと推察致します。

◆安倍首相は靖国参拝し、天皇陛下の御親拝再開の道を開くべき

「靖国で会おう!」と言って勇敢に戦い、壮絶な戦死を遂げられた方々は、死後、天皇陛下が御親拝される靖国神社に祀られることに最大の栄誉を感じていました。

戦死者が靖国神社に招魂され、天皇陛下が御親拝され、祀られることで、天皇陛下と国民、日本という国家と国民が繋がり、世代を超えて一体となることができるのです。

しかし、現状、天皇陛下が御親拝できないことは、陛下の責任ではなく、ひとえに政治家の責任であります。

昭和50年、三木武夫元首相が私人として靖国参拝をしたことを機に、マスコミや野党によって「政教分離」問題がクローズアップされたり、社会党が「天皇の参拝が公的か、私的か」を追及する事態が起こり、御親拝が途絶えるに至っています。

昭和50年以降、政権は次々と代わりましたが、靖国参拝については腰の定まらない曖昧な態度を続け、天皇陛下の御親拝の環境を整えることができないまま、現在に至っています。

中国や韓国からも「軍人を祀ることは、侵略戦争を肯定することだ」と矢のような批判が飛んで来るようになったことも、御親拝中止の一因となっています。

代々の政権は、中国や韓国による靖国参拝批判についても、「内政干渉である」と一蹴することができない「弱腰外交」を続けて来ました。

更に「村山談話」「河野談話」によって、「先の大戦が侵略戦争である」といった歴史認識が強まったことも、英霊を祀る靖国神社への御親拝の妨げとなっています。

安倍首相は「大川談話」をベースにした「安倍談話」を発表し、即刻、「村山談話」「河野談話」を白紙撤回すると共に、終戦記念日である8月15日に堂々と靖国神社に参拝し、天皇陛下の御親拝再開に向けた道を開くべきです。(文責・政務調査会長 黒川白雲)

黒川 白雲

執筆者:黒川 白雲

前・政務調査会長

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