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天安門事件24周年――天安門事件を風化させてはならない!

天安門事件24周年を迎え、中国当局が警戒を強化

6月4日、中国は天安門事件24周年を迎え、北京市内は天安門広場を中心に厳重な警備体制が敷かれました。

遺族や民主活動家らの外出が禁じられ、インターネット上では事件に関する書き込みが次々と削除されているほか、海外のテレビ局のニュースが突然見られなくなるなど、中国当局は警戒感を強めています。(6/4 TBS「天安門事件から24年、中国当局は警戒感示す」)

中国で視聴できるNHKなど海外のテレビ放送は、天安門事件に関するニュース項目になると画面が真っ暗になり、中断しました。天安門事件について中国のメディアは一切報道していません。

天安門事件24周年に先立ち、習近平政権は、共産党は北京や上海の大学に対し「報道の自由」など現体制を脅かしかねない「七つの禁句」を授業で使わないよう通達したと言います。

「七つの禁句」とは、(1)「人類の普遍的な価値」(2)「報道の自由」(3)「民主的な社会」(4)「公民の権利」(5)「中国共産党の歴史的誤り」(6)「特権資産階級」(7)「司法の独立」だそうです。(5/24 相馬勝のチャイナウオッチング)

日本では肯定的に使われている言葉も多くありますが、習近平政権が統制色を強めていることは確かであり、この一点からも、今の中国がいかなる統制社会であるかが伺えます。

中国の本質を世界に露見させた「天安門事件」

では、「天安門事件」とはどのような事件だったのでしょうか?

24年前の1989年6月4日、中国が自国の国民をどれほどひどく扱うのか、その実態が世界に知れ渡りました。

そもそものきっかけは、中国の自由と民主化を求めて、大学生が天安門広場でデモを始めたことです。これが中国全土に広がり、大きな民主化運動に発展しました。

デモは大きな盛り上がりを見せ、北京市内でも、民主化を求めた100万人デモが起きました。まさしく「革命前夜」といった雰囲気だったと思われます。

この民主化運動に危機感を持った中国政府は1989年5月19日、戒厳令を敷き、人民解放軍を動かしました。

一方、民主化に理解のあった改革派の趙紫陽元総書記などは「学生達の理にかなった要求を、民主と法律を通じて満たさなければならない」等と演説しましたが、趙紫陽氏は全役職を解任されて失脚、自宅軟禁されてしまいます。趙氏は2005年に亡くなる最近まで、ずっと自宅軟禁されたままでした。

政府と民衆の対立が激化する中、学生達は強硬に運動を続け、北京美術学院の学生によって作られた、ニューヨークの「自由の女神」を真似た「民主の女神」像が、天安門広場に建てられたりしました。

しかし、ついに「悲劇の日」がやって来ました。6月4日の未明、戦車や完全武装の兵士が、天安門広場の学生や民衆に突入し、無差別に発砲しました。

兵士が学生に発砲したり、戦車が学生を轢こうとしている動画は今もyoutube等に残っています。⇒http://www.youtube.com/watch?v=c4Hc9Fjrfl4

「天安門事件」を風化させてはならない

この事件による死傷者については、中国共産党の報道規制によって正確な人数が分かっていませんが、数千人規模と言われています。

ウィキリークスが2011年8月に公開した米外交公電の1990年3月の内容には、軍兵士の「無差別発砲」で、1000人以上の学生を死亡させたと記載。ソ連公文書のソ連共産党政治局が受け取った情報報告では、「3000人が殺された」と見積っています。

この事件の後、中国国内では天安門事件の報道が厳しく制限されています。

そのため、現代の中国では、天安門事件そのものを知らない若者も増えています。日本に留学してきた若い中国人の方が、「日本に来て初めて知る」という状態です。

日本に対して「歴史を振り返っての反省と謝罪」を強く求め続けている中国共産党政府は、この事件については、反省や謝罪が全く無いどころか、この事件が存在しなかったかの如く振舞っています。

天安門事件で拘束された男性は刑務所の中で、頭を壁に何度も打ち続け、こう叫んだと言います。

「聞こえるものは聞いてくれ。俺は今度生まれ変わるとしたら中国人には絶対生まれてこない。中国人なんて嫌だ。悲しすぎる。」

中国の言論統制に負けることなく、幸福実現党は天安門事件と中国共産党政府の実態を全世界に訴え続け、中国13億人を解放し、中国の自由化、民主化を支援して参ります。

(文責・岐阜県本部副代表 河田成治)

河田 成治

執筆者:河田 成治

岐阜県本部副代表

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