コロナ禍で深刻化か?虐待防止法改正でも高まる虐待リスク【後編】
幸福実現党党首 釈量子
◆なぜ体罰がいけないのか?
では、「なぜ体罰がいけないのか」ということですが、このあたりの智慧も社会にしっかりと共有する必要があると思います。
体罰を受けた子供は、問題行動を起こすことが多いことが指摘されています。
親子関係が悪化し、周りの人を傷つけて反社会的行動を起こしやすく、また、何かあったときに暴力で解決することを学んでしまいます。
そして自らが大人になって子供を持つと「虐待をする親」になるという、いわゆる「虐待の連鎖」が起きると言われる背景にあるものです。
医学的に言っても、子供時代に体罰を受けると、感情コントロールなどを司る、脳の「前頭前野」の容積が平均19.1%減ってしまうという研究結果も出ています。
繊細な子どもの傷ついた思いは、伏流水のように流れて、大人になってからも自己肯定感が低く、自尊心が持てないような子どもが増えていることも、私自身、多くの若者と接する仕事を通して、痛感させられました。
◆法律だけでは限界がある児童虐待の抑制
「虐待は子供に対する犯罪」なんだということを、社会で共有することは、非常に大事です。
しかし、「してはいけない」と法律で定めたとしても、根本的な考え方が変わらない限り、増える一方の虐待はなくなりそうにありません。
特に、4月から体罰は禁止となりましたが、厚生労働省の指針を出して、事細かく家庭に介入していくのもやりすぎだという声も多くあります。
必要なのは、困った時悩んだ時に「どうするか?」という智慧を広く子供の時から教えていくことではないかと思います。
あるいは親にそうした智慧を共有する場が必要だと思います。
例えば、子育ての支援策として、行政を中心とした「育児相談」や「子育て広場」「子ども食堂」など、自治体でも取り組んでいますが、現代では大半の家庭は孤立状態にあると指摘する識者もいます。
◆宗教教育が誇る「ゴールデン・ルール」
今こそ「子育ての智慧」や「夫婦関係の構築の仕方」など、「家庭の中の心の教え」をしっかりと学校教育の中から教えていく必要があるのではないかと考えます。
力を入れないといけないと言われている道徳や倫理といった科目もありますが、何よりも「宗教教育」を重視していくことが非常に大切なのではないかと思います。
厚生労働省の「体罰禁止の指針」の中には、「注意しても聞かないので頬をたたく」等が具体例として挙げられており、主に行動面に着目していますが、その奥にある思いの部分を正していかなければ、根本的な解決にはつながりません。
「自分が人からされたくないことを他人になすなかれ。」。「自分が人からしてほしいことを、人に対してしましょう」ということは、「黄金律」、つまり「ゴールデン・ルール」として、古今東西のあらゆる宗教の教えに共通するものです。
こういった宗教的な教えを学ぶことで、自分の頭で考えて、善悪を分けることができるようになります。こうした善悪を分かつ力が「智慧」です。
また、人の痛みを想像して、共感していける人間に成長していくためにも、こうした「ゴールデン・ルール」はなるべく早いうちに教えてあげたいものだと思います。
◆仏教が誇る「アンガーマネジメント」の智慧
体罰を振るったり、暴力に及ぶ根底に「怒り」、いわゆる「アンガーマネジメント」と言われますが、仏教にとっては非常に強い分野でもあります。
例えば、「心の三毒」として「貪・瞋・痴(とん・じん・ち)」を教えていますが、この三つの毒を食らいながら生きることがいかに愚かなことなのかを教えています。
学校の勉強が出来ることが頭がいいとは言っておらず、そうした知性的な面も大事ではありますが、仏教でいう賢さとはこの「心の三毒」を見抜くことが出来る人のことを指すわけです。
その中でも「瞋(じん)」が、瞬間湯沸かし器のようにカーッと怒ることですが、怒りを統御できない人は愚かだと仏教では教えていますが、この怒りを禅定や怒りの原因を分析したりしながら、クールダウンしていくわけです。
そして、この怒りの炎を吹き消した「涅槃の境地」、つまり心が平らかであることの幸福を、長い間仏教徒は追い求めてきたわけです。
虐待された子どもの心の傷を癒すとともに、虐待してしまう側の親も、厳しい家庭環境で育ち、虐待を繰り返してしまい、サポートを必要とする人であることも確かです。
私たち一人ひとりは完璧な人間ではありません。
ですから、宗教教育をはじめ、自分の心を照らし、力強く生きていく教育にも光を当てていくべきですし、そうした宗教的なコミュニティの活用も、虐待防止の有効な方法ではないかと思います。